Übungsplatz〔練習場〕

福居伸宏 Nobuhiro Fukui https://fknb291.info/

[資料 2013-11-02]

◇ Nobuhiro Fukui(@n291)/2013年02月05日 - Twilog

図らずも同じ箇所でニヤリ^^ QT @otanikei “@240sesame: 写真の意味、あるいはB級ホラーの演出<1>|清水穣 批評のフィールドワーク http://t.co/9Rxym2xM ” 「写真の無意味に耐えられない写真音痴」てとこでおもわず笑ってしまいました。

“紹介や説明文を読むのではなく、縦位置、横位置、正方形、順光、逆光、測光、接写、望遠、ピント、ブレ暈け、プリント、視角、構図、順序、インスタレーション、レイアウト、ブックデザイン…等々を注視する人が、驚くほど少ないからである”←デマンド展@MOTを本当に見た人は何人いたのか問題!

メモ。水野亮さん @drawinghell による国立新美術館「アーティスト・ファイル2013」評。http://j.mp/HAolYw ダレン・アーモンドについては大森さんの批判を思い出したりしました(たぶん4、5年前)。

「搾取と倫理」の件ですが、たとえば作家は批評家に対してこう返せばよいでしょう。お前はつねづね作品なり過去の偉人たちの思考モデルなりを搾取しておいて何を申すのか?と。お前の基本的な態度を明らかにしてから物を申せ!と。そういう視点も日曜日の風桶展座談会にはありませんでしたね(^^;

清水さん、流石に鋭くて面白いです。早く続きが読みたいです。でも、縦割り行政とメディウム・スペシフィシティについて思ったり、揚げだし豆腐の衣・薬味・だし汁をよけて豆腐の味を問うても的な…(^^;【連載 清水穣 批評のフィールドワーク:32】
http://t.co/oaPC6gMg

揚げだし豆腐のたとえは、志賀理江子さんにとってちょっと不利かもしれませんが。。。ともかく、いろいろと議論が深まることを期待^^

その2も同時にアップされていたようです。あとで読みます。結びは、あえて飯沢耕太郎さん的な。。。【連載 清水穣 批評のフィールドワーク:33|写真の意味、あるいはB級ホラーの演出<2> - ART iT アートイット】

志賀理江子評、後半も読了。標題のらしくなさ(清水穣さんなら、この「あるいは」を使った“それ系”の話法は恥だと考えるのでは?いつもはたいてい簡素で手垢のついていないものです)と内容から推測するに、今回は少しパスティーシュ的な効果も狙ったとか?あと、標題音楽絶対音楽について考えたり。

“作品群に最初に触れたとき、心の奥底がざわついた。無視できない強さがあった。何も考えないまま、疾走するように撮られた写真だと感じた。実際に写されているものは、さだまりがなく、バラバラだ。一貫性もない。それでいて、肌をいつまでも逆撫でして、止まない。だというのに、妙に心地よい。

情緒を寄せつけず、それでいながら、妙に感情的だったりする。あるいは高揚しながら自爆するかのように、生まれながら消えてゆく。きっと、彼は何かを人一倍、抱えている。それを捉える衝動に突き動かされているはずだ”小林紀晴(写真家・作家)
http://t.co/kjHYphtU

この清水穣さん http://t.co/oaPC6gMg http://t.co/zHpES54Z も、小林紀晴さん http://t.co/kjHYphtU も、作品を評する側からの言葉なんですが(作家のものではなく)、この数光年は離れてそうな距離感はいったい。。。

@digippox 酔っぱらって書いたものではないと願いたい気持ちもありますが、「じゃあ、どちらかに賭けようか」みたいになったときに、ほぼ素面の方に賭けるであろう自分がいて、何とも言えない気分になりますね。あと、酒じゃなくて自分に酔って書いた可能性もありそうですが、、、

@digippox また読んだら感想を聞かせてください。実は、氏は作家友達(彫刻)の親戚だったりします。その人も、氏の活動については「うーん」って感じで、言葉が重かったりしましたけど(^^;

再読。やっぱりパスティーシュを意識して書かれていると思います。結びのあたりもニヤリです。【連載 清水穣 批評のフィールドワーク|写真の意味、あるいはB級ホラーの演出 - ART iT】<1>http://t.co/oaPC6gMg <2>http://t.co/zHpES54Z

飯沢耕太郎さんが日本カメラか何かで、2012年のナンバーワン展覧会として「螺旋海岸」を選んでいたことを思い出します。しかも「まだ展示は見ていないが」というオマケ付き(この大胆な大技を繰り出したのは今回が初めてではないはず)。http://t.co/zHpES54Z

ともかく、笠原美智子さんや竹内万里子さんの応答(的論文)によるターンオーバーを期待します。【連載 清水穣 批評のフィールドワーク|写真の意味、あるいはB級ホラーの演出 - ART iT】<1>http://t.co/oaPC6gMg <2>http://t.co/zHpES54Z

写真2.0![定期ポスト] とかツイートしたくなるような笑ってしまう状況が続いていますが、今の90年生まれくらいの人々が30半ばとかになる頃には何とか良い状況が見えてくるように、いろいろと動いていければと思います。ネタと社交でコチョコチョやってるような連中の方を傍流に!(^^)

http://twilog.org/n291/date-130205/allasc


◇ Nobuhiro Fukui(@n291)/2013年02月06日 - Twilog

※「写真2.0」の検索結果 - Twilog http://t.co/GVYxaBPm

ワークショップの第3期・第2回では、2000年以降の写真特集をざざっと洗って、「写真2.0」の頓珍漢ぶりを検討しました。http://t.co/WYudmTx9

『写真論と写心論』(工作舎 1979年)のP69-70を再読。森永純さんや松岡正剛さんが森山大道さんのマンネリと業界との結びつき(これは荒木経惟さんについても[惟経と誤植])を批判。また、海外の動向に無関心で不勉強だとも(今のコピペ世代のように表層的に知っていても無意味ですが)。

『写真論と写心論』(工作舎 1979年)は、「写真そのものには心なんて写らないでしょう普通」ということで敬遠していましたが(畠山直哉さんの写真には心が写る発言は2008年)、読んでみるとけっこう面白かったです。目当ては河原温の話と森永純さんの外からの視点でしたが。

自主ギャラリー http://t.co/SHLU21fW 関連メモ。photographers' galleryを去った元メンバー→尾仲浩二楢橋朝子、元田敬三、本山周平、設楽葉子、蔵真墨、中村綾緒、小出直穂子ほか

“画家は構築する。「見えるものを、見えるようにする」ために。しかしカメラは、暴露するのだ。「見えるようにする」構築が、はからずも隠蔽するかもしれない、「見えるもの」の在り処/有り様を。写真の登場以来その〈野蛮〉が、どのように嫌われてきたかは、いまでは常識に属している”(鈴城雅文

鈴城雅文『原爆=写真論』(窓社 2005年)より。スーザン・ソンタグの「画家は構築し、写真家は暴露する」を受けての基礎的な議論から引用。

“創作的に写真を撮ることは、写真を流行にゆだねることだ。〈世界は美しい〉――これがそのさいのモットーにほかならない。……こういう写真による創造的なものの真実の顔は、広告であり連想作用であるので、それに正当に対立するのは、暴露あるいは構成である”(ヴァルター・ベンヤミン

『写真小史』でしたっけ?ずいぶん前に読んだきりです。http://t.co/4WY91veH 〈世界は美しい〉はもちろんアルベルト・レンガー=パッチュのこと。スーザン・ソンタグヴァルター・ベンヤミンの著作をどのように読んでいたのかも気になるところです。

※「よしきた」http://t.co/gtxUIrmV

“写真は構築的には語らない。「見えるものを、見えるようにする」絵画の対局で、写真は「見えるものを、見えるように」ではなく、「見えないまま」に突出させる。この〈野蛮〉が無碍に退けがたくなるのは、人為ではなく機械装置の所産であるそれが、「かつて-そのように-あった」という理由による

なるほどそれは、「かつて-そのように-あった」。いまも、ある――とはいえ「どのように」かは、ついに不明にしたまま” 鈴城雅文『原爆=写真論』より

これは、清水穣さんの「表象なきレフェラン」(同じことが志賀理江子論の冒頭でかなり噛み砕いて説明されています。文字数のエコノミーを重視しなかったことにも、おそらく理由はあるのでしょう)、あるいはドゥルーズプルースト論(未読)の「シーニュ」と同じことを言っているように思います。

メモ。【宮台真司「クソアピールをやめることができないクレージークレーマー層の“認められていない”感」】見栄えをコントロールする自信がない人にとって、オンラインは願ったり叶ったりの世界/認めてもらいたいという鬱屈ゆえに、ネットで噴き上がる http://t.co/zeBvvAnV

メモ。新しい言葉を覚えました。【自分の安地を作っていないか?「ネムルバカ」にみる駄サイクルの恐怖。 - たまごまごごはん】http://t.co/dK6LLget 【kurokori日記: SNSに漂う腐臭、社会進出する「駄サイクル」】http://t.co/Hyt3h4AT

【Web写真の現在】http://t.co/qXrmSipe ※「駄サイクル」で思い出しましたが、以前こんなまとめページを運営していました。すべてが、“ライトな駄サイクル”で回っていたわけではないのでしょうけども、しかし本当に多くの人が現れては消えていきました。。

現在はTumblrなどに場所を変えて発表を続けている人もいるのかもしれませんが、かつての熱気はないように感じます(僕がよく知らないだけかもしれませんが)。現在の状況をウォッチしている方がWSの個人講座に参加してくださっているので、またそのあたりを伺ってみたいと思います。

http://twilog.org/n291/date-130206/allasc


◇ Nobuhiro Fukui(@n291)/2013年03月06日 - Twilog

“写真映像の基本的な知識は、「そこに表面がある。さて、その向こうにはなにがあるのか、現実がこういうふうに見えるとすれば、その現実はどんなものであるはずかを考えよ、あるいは感じ直観せよ」といってみることである。

自分ではなにも説明できない写真は、推論、思索、空想へのつきることのない誘いである”(スーザン・ソンタグ『写真論』所収「プラトンの洞窟で」より)

“写真とは表象を持たずにレフェラン(指示対象)だけを持つ特殊な記号である。記号としての写真は、リアリズムともドキュメントとも関係なく、心理とも記憶とも関係がない。写真は、「撮るもの」からも「撮られたもの」からも独立している”http://j.mp/YVzG8d

「表象なきレフェラン」http://j.mp/YVvx3Z 「特殊な記号」http://j.mp/YVvIMJ

そういえば、飯沢耕太郎さんが日本カメラ3月号で「螺旋海岸」http://j.mp/YVzYvF を取り上げていて、「清水穣の志賀理江子論に与することはない」的なことを記していましたが、まったく対論になっていませんし、どういうレベルを想定して発言しているのか意味不明でした。

再囀:“例えばこういう言い方をどこかで聞きかじってそれをさも自分で考えたかのようにさらりと再現する才能をぼくはあまり信用しない。それはライターや評論家、つまりぼくのような人間の才能であって、そうやって器用に何もかも語れることと、それが表現としてできることは一致しない。

しかしこの学生は、作品の内側にある論理性を発見し、それを自分の作品の「方法」に置き換えようとしている”(大塚英志『大学論』・第六章「ルパンの背中にはカメラのついたゴム紐が結んである」より)

再囀:“中途半端な美大やライティングコースでそういう学生同士の講評を見ていて感じているたのは、もっともらしい現代思想や美術論を語れる学生がその場を支配してしまうことの愚かさだ。なるほど「評論」されて初めて「価値」が生じるアートや文学を目指すにはそれも悪い経験ではない。

けれどもぼくは自分の中にちゃんと「方法」が意識され、それを「表現」として形にできて、そして同時にたどたどしくて少しもかまわないから自前の「ことば」にできた時、初めて他人にアドバイスができると考える”(大塚英志『大学論』・第六章「ルパンの背中にはカメラのついたゴム紐[略]」より)

http://twilog.org/n291/date-130306/allasc


◇ Nobuhiro Fukui(@n291)/2013年04月04日 - Twilog

@yfjym エイフェックス・ツインのあの曲はテレビや映画でも、ちょくちょく使われるようですし(CMでも使われていたように思いましたが、どうなんでしょう)、記憶のどこかにその印象が残っている方も多いのではないかと思います。それだけに、その音が隣の展示室にまで鳴り響いているのは、

@yfjym けっこう微妙な状況だったのかと思います。志賀理江子さんの展示もややエンタメ的に見えてしまうというか。エイフェックス・ツインの音楽それ自体はシリアスなものだと思うんですが、テレビ等のメディアで使われることによって、ある印象の方向性がかたちづくられてしまうというか。

.@yfjym あれはあれで別のものでしたね。作品のサイズもセレクトも違っていましたし。「螺旋海岸」の展示の中心軸となるイメージ?であろう「遺影」のサイズも大きくなっていて、石や白い木の写真がかなり少なくなっていて、黒一面の写真もわずかしかなくて、だいぶ違った内容だと感じました。

再囀:アーティスト・ファイル2013@国立新美術館志賀理江子さんは、作品のセレクトやサイズの変更も多く、まったく違った印象の展示になっていました。あの「遺影」が大きめに伸ばされていて、自画像の可能性も捨てきれないと思いました。仙台ではそうは感じなかったのですが、土嚢の内容物が

疑問に思えたりしました。仙台との最も大きな相違点はプリントの扱いでしょうか?空間が狭いというのもありますが、プリントはとてもフラットな状態でした。仙台の展示での印画紙のカールは、ドライヤー等を使って厳密にコントロールしているのだと思ってましたが、本当のところどうなんでしょう?

気になるところです。今回の国立新美術館でのインスタレーションも細部まで調整されていて、巧みさを感じましたが、両隣の音はどうしようもないというか。エイフェックス・ツインのあの音楽が聴こえてくるというだけで、志賀さんの「螺旋海岸」の場合は、台無しになってしまうというか……

『螺旋海岸|album』についてですが、WSで出た意見としては、バラバラ、散漫、何をしたいのかわからない、けっこうコミカル、結局展示で使った写真を見せるためのアルバムなのでは、それにしては写真集としての構成らしきものもあって謎、なんでこの写真が、けっこうベタ、といったものでした。

訂正:僕が東松さんの作品を想起した写真ですが(もちろん絵柄はまったく異なる)、正しくは「魚を抱える男性の写真」ではなく、「魚を抱える女性の写真」でした。というか、抱えているのが魚かどうかも不明です。「砂泥棒」という作品で、それは前半の「肉は肉、魚は魚」と対応しているのかなと。

東松照明宮古島」(1979年)http://j.mp/XdOL6z は、「少年と海と太陽と僕」(1969年)の2点目の写真と構成的にほぼ同じ内容だと言ってよいものだと思います(左右を反転して、ダッチアングルにし、画面の中心にあるモチーフ[佇まいも似ている]を入れ替える)

『螺旋海岸|album』を再見してのメモ。1点目の石(顔のようにも見える)には特別な思いが込められている?そして、本書を挟み込む右手と左手にも対応?表紙の写真と中面の写真は異なる(左上に人影)。螺旋じゃなくて同心円なのでは?(よく聞く話)「いまださめぬ」だけ本書では目立つデザイン

「いまださめぬ」は90度左に回転している。「宇宙人だった」というタイトルも凄いですが、英訳の主語が「I」になっているのも凄い。「ばけものと暮らした」も同じ。この「I」という主語は誰なんでしょうか?そして、この「I」の奇妙さは、展示でも重要な意味を持っているであろう「私」「私、私」

といった作品の奇妙さとも通じるものだと思います。あと、写真集には「遺影」が掲載されていない。忘れてましたが、冒頭にある現代詩的な文章、仙台で展示を見ていれば、オーラルヒストリーで採取した言葉を組み合わせたものであろうことが推察できる、に訳文がない。この巻頭の言葉はこの写真集の

設計図的な位置づけになっているものであろうと思われるのに。だから、日本語ネイティブとそうではない人にとって本書の伝わり方は大きく異なるはず。細かくやっていくとキリがないので端折りますが、「30年たつと」は2009年の写真で震災とは何の関係もないこと。唯一作者である志賀理江子さんが

写り込んでいる写真かもしれない「千体地蔵」は後半の石の連続と関連?しかし、そもそもこうした思わせぶりでありながらも結論を出さないものって、悪く言うと蓮實重彦さんだか柄谷行人さんだか浅田彰さんだかが、村上春樹さんの作品を指して「結婚詐欺師の小説」と言ったことに近いとも言いうるのでは

ねじまき鳥クロニクル』では、そうした批評家らしき人物が金属バットで撲殺されていたように思いますが。。「私と写真の関係を現した地図」「写真と展示室の関係を現した地図」などの展覧会を結びつけようとする作者の意図と真意は?「北釜にある人形、ぬぐるみを(略)」の普通の集合写真っぷり。

仙台でも東京でも展示されてなかった「志賀秀雄」の意味は?祖父?父親?親類?同じく展示にはなかったであろう、「下増田地区の開墾記念の集合写真」も文脈拘束性が強く働くので、どういう意図なのかなと。地蔵と石との関連づけだと解り易いですが。あと「螺旋海岸」のナンバーと制作年代の乱数性。

石のタイトルの数字もどういうシステムでナンバリングされているのかイマイチよくわかりません。暗号的。あと、「千体地蔵」の件、訂正。「葬儀」は自分が写っているとも言えますね。……といったところで、この辺にします。どれもがキャプションを見ながら適当にぱらぱら捲ればわかることですし。

最後に補足。仙台展のときにツイッター等で検索すると、「(私も)志賀理江子になりたい!」という発言が結構あったりしました。これは日本のカラオケ的作家志願者に共通するものなのかもしれませんし、悪しき「写真行為」とも結びついているものなのかもしれません(e.g.森山大道になりたい!)。

志賀さんの作品は日本の悪しき「写真行為」的風土とも親和性が高いのでしょう。その一方で、「写真行為」ということでいうと、ブルデュー→デュボワの「写真行為」で上手く論ずることができれば、清水穣さんのメディウム・スペシフィシティに依拠した論なども撥ね除けることができるのかもしれません。

すばるは7月号ですね。僕は1月に青山ブックセンターで行われた
蓮實重彦とことん語る」を聴講しています。そのときすでに「海カフ」(蓮實さんの言葉)に言及して結婚詐欺師の話をされてました。もう少し歴史があるのでは?<@rob_art 2003年の『すばる』での蓮實さんの発言ですね

情報ありがとうございます。「村上春樹を批判してこそインテリ」的な空気が亜インテリの方々を中心に共有されているような空気ってのも、その源流が気になりますね。<@rob_art いまググったところ、そのシンポジウムの内容がすでに『すばる』2003年3月号に掲載されているようです

Henri Van Lierの写真についての著作。欧州の写真の世界での扱いはどうなんでしょうか。日本ではあまり知られてなさそうです。【Anthropogény. Semiotic - Philosophy of Photography】http://j.mp/XTTyaE

こちらも、Henri Van Lierの写真についての著作。【Anthropogeny. Phylogenesis - Photographic History of Photography】http://j.mp/XTTHe4

「不作為の作為」「合成の誤謬http://j.mp/10z4Jad ※http://j.mp/ZcTlFy

http://twilog.org/n291/date-130404/allasc