Übungsplatz〔練習場〕

福居伸宏 Nobuhiro Fukui https://fknb291.info/

ジャック・ラカン『精神分析の四基本概念』 斎藤環(下) - たいせつな本 - BOOK - asahi.com(朝日新聞社)

 「読まれないために(!)」書かれたという『エクリ』に比べれば、語られた本書はずっとわかりやすい。私がもっともよく読み返すのは、「眼差(まなざ)し」について展開される、アクロバチックなまでに鮮やかな分析だ。

 ラカンはここで、昆虫などにみられる眼状斑の擬態、荘子の「胡蝶(こちょう)の夢」、ホルバインのだまし絵「使節たち」などを例にとりながら「眼と眼差しの分裂」を論じる。そこに去勢され、欠如を抱えた人間の主体を重ねようとする。

 このような知の形式は、ジジェクらによって一部受け継がれたものの、もはや主流になることはないだろう。しかしラカンが遺した言葉は、ソフトウエアとしての精神分析に、いまなお倫理的視座をもたらす。心をわかろうとするものは、まずラカンの「わからなさ」に打ちのめされておくべきなのだ。(精神科医

http://book.asahi.com/mybook/TKY200806110186.html


◇ 建築が持つ同時不可視性の克服に向かって 86129 保田 千晶 東京大学大学院 建築学専攻 2009 年度 修士論文梗概集
http://katolab.net/theses/ma86129yasuda.pdf


メルロ=ポンティラカン 小野康男
http://kamome.lib.ynu.ac.jp/dspace/bitstream/10131/8133/1/01ono.pdf


◇ 『クレーヴの奥方』 向き合うことと隣り合うこと : 『クレーヴの奥方』における切り返しの機能  御園生涼子 - boid.net

 しかし、視線を交えることによって、ほんとうに二人は「出会って」いると言えるのだろうか? 彼の視線の先にいるのが彼女だと確信できるだろうか。アップで切り取られた彼、もしくは彼女の顔は、その主観性が高まれば高まるほど、周囲の舞台装置からは切り離される。もはや二つのショットは、視線が作るイマジナリーラインによってしかつながれていない。しかし、これはいかにも弱々しい絆である。視線が対象を見ている、そのことによって対象を「捉えている」ということなど、不可能なのだから。ここでわたしたちは、ラカンの目と眼差しに関する有名なテーゼを思い出さなくてはならない。「最初から我われは、目と眼差しの弁証法にはいかなる一致もなく、本質的にルアーしかないということに気づいていました。愛において、私が眼差しを要求するとき本質的に満たされずつねに欠如しているもの、それは「あなたは決して私があなたを見るところに私を視ない」ということです注1。」
 眼差しには欲望が刻まれている。フロイトが『性に関する三つの論文』で示したように、そこには対象への愛、セクシュアルな欲望が含まれている。フロイトは子供の窃視症的行為を例に取りつつ、視覚快楽嗜好(スコポフォリア)がセクシュアリティ本能の一構成素を成すことを説明している。しかし、眼差しとはそもそも不均衡なものだ。私達は対象に眼差しを注ぐとき、対象からの見返しを期待する。メルロ=ポンティであればそこに、見ることによって対象を存在させ、また対象において見る主体が存在を定立するといった、知覚と存在をめぐる交叉関係を見出すだろう。しかし『精神分析の四基本概念』において、ラカンメルロ=ポンティに言及しつつ提示するのは、これとは正反対の知覚モデルだ。すなわち眼差しの先にあるものは、対象の〈不在〉に他ならない、というテーゼである。
 「窃視症で起こっているのはどんなことでしょうか。窃視者の行為の際に主体はどこに、そして対象はどこにいるのでしょう。申し上げたとおり、見るということが問題になっているかぎり、というより欲動の水準において見るということが問題になっている限り、そこには主体はいないのです。(・・・)ここでは、視る欲動について語られるときにつきものの曖昧さがはっきりと捉えられます。眼差しこそ、あの失われた対象です。そしてこの失われた対象は、他者の導入によって、恥ずかしさによる動転という形で突然再発見されます。そこに至るまでの間、主体は何を見ようとしているのでしょうか。よくお聞きください、主体が見ようとしているのは不在としての対象です注2。」
 ここで言われている、「失われた対象としての眼差し」とは何を意味するのだろうか。ラカンのよれば、眼差しはそれ自身のなかに対象「a」を含み持っている注3。対象「a」とは、ラカンの定式において欠如の象徴を表す記号である。たとえば口唇期においてはそれは乳房となり、肛門期においては排泄の等価物となる。対象「a」は、欲望の中心にある欠如の代理作用をするが、その一方で欲望の対象が永遠に失われていること、その「不在」を常に指し示すのである。したがってラカンのいう「眼差し」と、身体的器官としての肉眼を同一視することはできない。ラカンは例として、動物における擬態、とりわけ昆虫などにみられる眼状斑を引き合いに出している。目の機能を思わせるこの模様は、しかしただのシミでしかない。それにも関わらず、このシミはそれを見る主体に「見られている」という感覚を呼び起こす。つまり、わたしたちは目の機能としての「知覚すること」ではなく、眼差しそのものを欲望し、また同時に掻き立てるのであるが、その交錯の基底には対象の不在が横たわっているのである。

http://boid.kir.jp/review/75.php


◇ アンドリュー・パーカー『眼の誕生』と対象aとしての眼差し - ish
http://ish.chu.jp/blog/archives/2007/05/a.html


ジャック・ラカン精神分析の四基本概念』(岩波書店) - 有沢翔治のlivedoorブログ
http://blog.livedoor.jp/shoji_arisawa/archives/50767690.html