Übungsplatz〔練習場〕

福居伸宏 Nobuhiro Fukui https://fknb291.info/

資料:写真研究会 前川修(2003年5月17日)Lingering Rengering――レンガー=パッチュ(1897―1966)『世界は美しい』の力学――

1 はじめに―― 煙突とラジオ塔――

2 『世界は美しい』の構成原理―― 客観と抽象―― 

3 『世界は美しい』への反応―― 世界はただ美しいだけなのか、世界も美しいのか、この世界は美しいなのか――

4 ベンヤミンによる批判――現実であることと現実を語ること――

5 シムズの批判について――公正な写真と裁判官席をひっくり返す写真

6 煙突を見上げること/見下ろすこと
――バタイユ、ネイムス、モホイ=ナジ――


《参考文献》

Christpher Phillips ed., Photography in the Modern Era –European Documents and Critical Writings, 1913-1940, Metropolitan Museum

Albert Renger-Patzsch, Aims (1927), Photography in the Modern Era –European Documents and Critical Writings, 1913-1940, 104-105

Albert Renger-Patzsch , Joy before the Object (1928), Photography in the Modern Era –European Documents and Critical Writings, 1913-1940, 108-110

Albert Renger-Patzsch and Erno Kallai, Postscript to Photo-Inflation/Boom Times (1929), Photography in the Modern Era –European Documents and Critical Writings, 1913-1940, Metropolitan Museum, 140-141

Albert Renger-Patzsch, Photography and Art (1929), Photography in the Modern Era –European Documents and Critical Writings, 1913-1940, 142-144

Andreas Haus, Die Entwicklung der modernen Fotografie –Neues Sehen und Neue Sachlichkeit, Monika Wagner(Hg,), Moderne Kunst 2, s.351ff.

Virginia Heckert (Guest Editor), History of Photography, Volume 21 Number 3 (Autumn 1997)

Thomas Janzen, Albert Renger-Patzsch's Early Work: Object and Abstraction, 182

Claus Pfingsten Albert Renger-Patzsch: Early Industrial Photography, 187

Ulrich Ruetter, The Reception of Albert Renger-Patzsch's Die Welt ist schon, 192

Matthew Simms, Just Photography: Albert Renger-Patzsch's Die Welt ist schon, 197

Virginia Heckert, Albert Renger-Patzsch as Educator: 'Learn to see the World', 205

Thomas Jantzen, Photographing the ‘Essence of Things’, Ann and Juergen Wilde,Thomas Weski ed., Albert Renger-Paztsch, MIT Press, 1997.

Michael Jennings, Agriculture, Industry, and the Birth of the Photo-Essay in the Early Weimar Republic , October 93, Summer 2000, MIT Press

Donald Kuspit, Albert Renger-Patzsch A Critical BiographicalProfile, Albert Renger-Patzsch −Joy Before the Object-, Aperture and J. Paul Getty Museum 1993

David Mellor (ed.), Germany the New Photography 1927-33, Arts Council of Great Britain , 1978

Carl Georg Heise, Preface to A.Renger-Patzsch, Die Welt ist schoen (1928), Germany the New Photography 1927-33, p.9-14

Herbert Moldering, Urbanism and Technological Utopianism, Thoughts on the Photography of Neue Sachlichkeit and the Bauhaus (1978), Germany The New Photography 1927-33, 87-94

Brian Stokoe, Renger-Patzsch: New Realist Photographer (1978), Germany the New Photography 1927-33, 95-100

Ute Eskildsen, Photography and the Neue Sachlichkeit (1978), Germany the New Photography 1927-33, 101-112

Abigail Solomon-Godeau, The Armed Vision Disarmed: Radical Formalism from Weapon to Style, Photography at the Dock –Essays on Photographic History, Institutions , and Practices, Minnesota Press, 1991

Vierhuff, Die Neue Sachlichkeit- Malerei und Fotografie, Dumont , 1980

http://homepage1.nifty.com/osamumaekawa/study030517.htm


◇ 2003年7月に行われた写真研究会のレジメです - photographology

アラン・セクーラのアーカイヴ論

――レンガー=パッチュとモホイ=ナジの間に――

1 はじめに――

「流行となっている写真において、2,3の例外を除き、独創性への憧れや見せ掛けが美的基準や技の欠如と結びついている。その歴然とした例。シュトットガルトの展覧会〔『映画と写真』展のこと〕、それはこれ見よがしの装いのここ最近の短期間に流行している写真を選んだものなのである。…〔中略〕…それはひとつの共通の分母をもつでたらめな写真の山だったのである。質に量がとって代わっている。成功のためのレシピ。上から撮ることあるいは下から撮ること、引伸ばすか縮小すること、屑が最も満足させるモチーフになりうる。出版社にプリントを送れば、怪物である出版社は何でも食べてくれるのである」。(カライとレンガー=パッチュ、「写真のインフレーションへの追記」1929年)

ニュー・ヴィジョン 左派・革新的・前衛・非専門的・抽象・主体(人間学的)/

ノイエ・ザッハリッヒカイト 伝統的・保守的・職業的・リアリズム・ストレート写真・事物

参考文献

Andreas Haus, Die Entwicklung der modernen Fotografie –Neues Sehen und Neue Sachlichkeit, Monika Wagner(Hg,), Moderne Kunst 2, s.351ff.

Virginia Heckert (Guest Editor), History of Photography, Volume 21 Number 3 (Autumn 1997)

Claus Pfingsten Albert Renger-Patzsch: Early Industrial Photography, 187

Matthew Simms, Just Photography: Albert Renger-Patzsch's Die Welt ist schon,  197

Eleanor M.Hight, Picturing Modernism, Moholy-Nagy and Photography in Weimar Germany , MIT, 1995

Louis Kaplan, Laszlo Moholy-Nagy Biographical Writings,Duke University Press,1995

Albert Renger-Patzsch and Erno Kallai, Postscript to Photo-Inflation/Boom Times (1929), Photography in the Modern Era –European Documents and Critical Writings, 1913-1940, Metropolitan Museum, 140-141

Benjamin Buchloh, Warburg’s Paragon? The End of Photomontage and Collage in Postwar Europe in: Deep Storage -- Collecting, Storing and Archiving in Art, Prestel-Verlag,1998.

Allan Sekula, Traffic in Photography, in: B.H.D.Buchloh ed., Modernism and Modernity,,1983
Allan Sekula,The Body and the Archive, in: Contest of Meaning, 1986
Allan Sekula,Reading an Archive, in: B.Wallis, Blasted Allegories, MIT,1987

Rosalind Krauss, A Note on Photography and the Simulacral, The Critical Image―Essays on Contemporary Photography,Bay Press 1990

ロザリンド・クラウス、「写真のディスクール空間」『オリジナリティと反復』小西信之訳、リブロポート、1994年

http://homepage1.nifty.com/osamumaekawa/sekulaarchivetheory.htm


◇ Reading Photobooks: Narrative Montage and the Construction of Modern Visual ... - Andrea Jeannette Nelson - Google ブックス
http://j.mp/1raE6GX
"Albert Renger-Patzsch and Erno Kallai, Postscript to Photo-Inflation"


◇ 「である」写真「である」写真「… foto ist foto ist foto ist… - photographology

 1920年代のノイエ・ザッハリッヒカイトの写真家として多大な影響を以降のドイツ写真に及ぼした、いわゆるドイツの「ウェストン」的な存在としてよく知られているレンガー=パッチュ。
 彼について、これまたよく知られたベンヤミンの批判――「世界は美しい」というスローガンのもと、事物を変容させる反面で社会的文脈を何ら示すことがない技術のロマン主義化、自然化、物象化を推し進める写真――でその後史の命脈が尽きたかと思いきや――もちろん生前の写真集の途方もない量には及ばないが――定期的に展覧会や写真集は開催・出版されている。
 ベンヤミンのいささか粗い批判を引継ぎつつ面白い問題提起をしているのが、シムズ論文「公正な写真」であった。「事物そのものに語らせる」べく、鮮鋭なフォーカシング、極端なクロースアップ、大胆なクロッピングによって構成された放射状や同心円状の構図の画像は、あるスケールがひたすら無限に反復される連続的な幾何学模様になる。前後に圧縮され、その細部のすべてが明瞭なまま規則的に反復され、すんでのところで脱中心化を免れている画像。事物の本質を語らしめ、それを神秘的、非歴史的な存在の始原への経路=象徴になるという美術史家ハイゼと写真家レンガー=パッチュの共同作業。それが『世界は美しい』である。その試みは工業製品や工業施設ばかりでなくあらゆるカテゴリーに属す事物を「公正に評価する」企てであった。事物そのもの「である」ような写真、それがこうした写真の特徴である。客観的「であり」ながらも抽象的「である」写真。ザッハリッヒとは何か疑問でならなかったが、こういってもらうとある程度すんなり理解できる。

 レンガー=パッチュは「目的」という文章の中で「写真とは何であるか?」という問いに、事物を「公正に評価する」、つまり事物「である」ことに他ならないことに仕えるのが写真「である」と述べている。この存在論的=本体論的な問い方には、すでに予め用意され回復を希求されている真正なもの、本来的なものが地平線上に顔をのぞかせている。「何であるか」という問いは、いわば本来的なものから不純なものを区別し排除するための仕掛けになっているのである。何であるか――事物であることである、というわけである。
 ここで面白いのが「公正に評価する」という語も司法的な意味を含んでいるということである。ここにベンヤミンの有名なフレーズ――写真は芸術という裁判官席をひっくり返すはずが、よりによって芸術を裁判官席に座らせてしまった――をつき合わせてみることもできる。審判席をひっくりかえすということは、本来的なもの/非本来的なものという回復と排除の力学を掘り崩す。いわば「である」ことも「でない」こともご破算にしてしまうのが写真であるという定義。写真の本来性=複数性と反復性はそうしたものとしてしか定義できない。レンガー=パッチュの写真にはこうした反復性が二重に、いや三重に現れている。写真自体の反復と写真の内部で行われる反復である。いやそれどころか、彼は事物である像を複写していたのでもある。であるという無限の連鎖が起源の不在を明らかにしている。

http://homepage1.nifty.com/osamumaekawa/stereodiary52.htm


◇ Krauss,Rosalind 写真的なもの:隔たりの理論 - photographology

第4章-3  写真とシミュラークルについてのノート


◇「批評」に代えて−「隔たり」から隔たるには?

 前回報告のあったクラウスの写真論(「シュルレアリスムの写真的条件」(OctoberNo.19[1981])、「写真の言説空間」(College Art Journal 42[1982])に引き続き、彼女の写真論紹介ということになる。この論文は、『オクトーバー』誌31号[1985Winter]に掲載されたもので、後にフランス語でまとめられた写真論集(『写真的なもの 隔たりの理論』[1990])のなかでは最新のものである。  
この論文の議論の骨格は明快である、写真は芸術的対象としては批評不可能である、だから写真に相応しい言説は、美的言説ではありない、むしろ写真(についての言説)は、美的言説の諸概念の統一を掘り崩す、あるいはそれらの機制を脱構築する企図となるべきだと。その例としてシャーマンの試みが挙げられる。そこには、美的言説の脱構築、芸術批評という行為の「再構築」(!?)が写真において行われている。オリジナルや同一性を基にした世界から、すべてが現実効果をもつシミュラークルと記号の世界への移行、これがシャーマンの試みの背景には控えている。写真的シミュラークルによって芸術(批評の自閉性)を破砕する試み、これが一方の極である。他方で、ペンの写真の試みが挙げられる。ペンは商業写真から芸術写真への転向を試みたと一般には言われている。ところが、芸術写真のオリジナルな手法を支えてくれるはずの数々の手法が、実は商業写真の文法に酷似してしまう。ペンの芸術写真はシミュラークルに依拠している、いわば抑圧されたものが回帰しているのだ、と。

 前回も疑問が提起されたように、クラウス自身の写真へのスタンスは流動的である。一見すると「シュルレアリスムの写真的条件」と同様に、シャーマンに対する立場は、芸術的批評=言説を「脱構築」するといいながらも、その「再構築」という帰結に行きついてしまうし、他方で、アジェの写真の属していた空間が美的言説とは異質な言説空間であると指摘した(「写真の言説空間」)のと同様に、ペンの芸術写真は、実は美的世界とは異なるシミュラークルの世界に属していると主張する。この論文では、この2つの極の「隔たり」が彼女自身に意識されたものだと言える。もっとも、その隔たりの空間にブルデュー流の写真論が無造作に置かれただけなのだが。  クラウスの試みへの批判は、すでに報告したジェオフリー・バッチェンのもの(『Burning with Desire』)がある。もう一つ、最近目にしたクラウス批判を挙げておこう−プライスの批判(メアリー・プライス『写真−閉ざされた空間』)−。

しかし、クラウスは枚挙的記述が無用だと言っているのではない。上記の隔たりの空間に広がる社会的言説として、利用可能な間隙として、特徴的な枚挙的記述という素材を挙げているのである。ただし、それは、写真についてしばしば指摘されるような、−「統辞のない文」「名詞だけの文」としての写真という−記号論的見解の「反復」にすぎないのではないか。物足りなさが残る。
 クラウスの写真論をつねに閉ざしてしまうのは芸術という参照点−「隔たり」の参照点−ではないだろうか。それではそこから隔たるにはどうすればよいのか。例えば、写真の(非−)記号論的観点からの考察(もちろんクラウスはそれを試みてはいるのだが…)、写真と言語の関わりの問題の検討(ex.プライス)、あるいは写真が呈示される方法(印刷媒体や展覧会など)の考察(ex.クリンプ)、こういった分岐点を考えてみてはどうだろうか。
 それにしても、あれほどクラウスの批評を牽引していたはずのインデックスの力は感じられない。なぜ彼女は写真という「インデックス」にもっと引きずられていかないのだろうか? いずれにせよクラウスの写真論全体、『写真的なもの−隔たりの理論−』に向かわなければならないだろう。

http://homepage1.nifty.com/osamumaekawa/Krauss.htm