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福居伸宏 Nobuhiro Fukui https://fknb291.info/

デジデリウス・エラスムス - Wikipedia

デジデリウス・エラスムス(Desiderius Erasmus Roterodamus, 1466年10月27日 - 1536年7月12日)は、ネーデルラント出身の人文主義者、カトリック司祭、神学者、哲学者。ラテン語名には出身地をつける当時の慣習から「ロッテルダムエラスムス」とも呼ばれる。なお、名前の「エラスムス」は洗礼名でカトリック教会の聖人フォルミアのエラスムス(Erasmus of Formiae)からとられているが、「デジデリウス」は1496年から自分自身で使い始めた名前である。
主な著作に『痴愚神礼賛』(Moriae encomium)、『エンキリディオン』(キリスト教戦士の手引き、Enchiridion militis Christiani)、『平和の訴え』などがあり、著作の中では一貫して「キリスト者の一致と平和」をテーマとした。また、エラスムスの『校訂版 新約聖書』(新約聖書ラテン語ギリシア語対訳、Novum Instrumentum)は広く読まれ、マルティン・ルターのドイツ語訳聖書の原版になった。エラスムスの思想は宗教改革運動と対抗宗教改革運動の双方に大きな影響を与えた。『ユートピア』を著したトマス・モアとの親交や自由意志に関するマルティン・ルターとの論争でも知られる。
宗教改革の時代を生きたエラスムスは「カトリック教会を批判した人文主義者」と表現されることが多いが、実際にはローマ教皇庁を含めカトリック教会内に知己が多く、生涯を通してカトリック教会に対して忠実であり、カトリック教会の諸問題を批判しながらも中道を標榜してプロテスタント側に投じることはなかった。
エラスムスは1536年にバーゼルで逝去し、もともとカトリック教会のバーゼル司教座聖堂だった教会に埋葬された。

人文主義者としての名声[編集]
貧しかったエラスムスは学資を得るため、勉学のかたわら外国人学生の家庭教師を始めた。これが縁となって1499年にイングランドへ赴く機会を得、同地の上流社会に多くの知己を得た。その中にはエラスムスと同年齢ながら彼が師とあおぐことになる人文主義者ジョン・コレット(John Colet)、終生の友となった政治家トマス・モア、若きヘンリー王子(後のヘンリー8世)などがいた。ジョン・コレットは当時オックスフォード大学で教鞭をとっており、エラスムスは彼の聖書研究の方法論(当時の主流であったスコラ学的アプローチでなく、サン・ヴィクトル学派の流れを汲んでいた)に影響されている。ジョン・コレットエラスムスギリシア語の知識が不十分であるとし、さらに研鑽を続けるようすすめた。この頃からエラスムスの関心がギリシア・ローマの古典から、聖書と教父などのキリスト教的著作へと移っていく。1500年『古典名句集』の初版が、1504年には一般信徒向けの信心書である『エンキリディオン』 があいついで出版され、エラスムス著作家としての名声を高めていった。さらに同年、ルーヴァンでロレンツォ・ヴァラの手による『新約聖書註解』の写本を見出したことは彼の人生の方向を決める出来事となった。[3]
1506年には念願のイタリア行きを果たし、訪れたトリノ大学で神学博士号を授与された。その後イギリスに向かうためアルプスを越えたが、その道中で『痴愚神礼賛』の構想を得たという。[4]これは古典をモチーフにしながら、エラスムスの風刺とユーモアの精神が遺憾なく発揮された作品となった。1509年以降、エラスムスケンブリッジ大学で教壇に立ち、イングランドの学会での名誉あるポストにつくよう何度か申し出がなされたが、自由な立場で研究を続けたかったエラスムスはそれを断った。
1514年イギリスを離れてスイスのバーゼルに到着したエラスムスは書店店主ヨハン・フローベン(Johan Froben)と知り合う。フローベンとエラスムスは意気投合し、以後のエラスムスの著作はフローベンの書店から出版されることになる。1516年に出版された『校訂版 新約聖書』(Novum Instrumentum) と9巻からなる『ヒエロニムス著作集』は学識者の間で高く評価され、人文主義者としてのエラスムスの評価を決定付けることになった。

校訂版 新約聖書』の出版ではギリシア語テキストの出版の重要性および革新性が強調されることが多い。すなわち、「人文主義エラスムスの手によって、西欧で初めて学術的に校訂されたギリシア新約聖書が世に出た」というような言い方である。このような表現は、古典研究者であったエラスムスが当時のカトリック教会言語、学術言語であるラテン語を軽視し、新約聖書のオリジナル言語であるギリシア語を重視してその出版に力を注いだというような印象を与える。
だが、実際のエラスムスはこの聖書の出版においては、むしろ優れたラテン語新約聖書を世に出そうとラテン語版の校訂に力点を置いていた。実際、エラスムスの出版したギリシア語テキストは正文批判のレベルからすれば稚拙なものであった[5]。その理由はエラスムスが手にいれたギリシア新約聖書フィレンツェ公会議(バーゼル公会議)に参加した東ローマ帝国の聖職者によって西欧にもたらされたもの(ビザンチン写本)であり、テキストとしてはせいぜい12世紀にさかのぼるのがやっとのものであった(ヴルガータと呼ばれた当時のラテン語定本は古代のギリシア語版から翻訳されており、その痕跡を随所に残していた)。さらにエラスムスは『ヨハネの黙示録』の完全なギリシア語版を入手できなかったため、その一部を手元のラテン語版を見て自分でギリシア語に翻訳した。つまりエラスムスにとって『校訂版 新約聖書』に添付したギリシア語テキストの重要性はその程度のものだったのである。これに反して彼はラテン語テキストの校訂および新約聖書の注釈書の執筆には相当に力を入れている。[6]
エラスムスの思いと裏腹に、自信を持ってまとめたラテン語テキストより稚拙なギリシア語テキストのほうが広く受け入れられ、1521年にルターがドイツ語訳聖書を著したときに、1519年の第二版を底本として用いたこともよく知られている。[7]
このころのエラスムスが学者として高い評価を受けていたことは、1516年にブルゴーニュ公シャルル(後のカール5世)の名誉参議官に任命されていることからもうかがえる。また、当時のスペインの摂政ヒメネス・デ・シスネロスは自ら進めていた多言語対訳聖書(『王の聖書』、Complutensian Polyglot)の校訂のアドバイザーとしてエラスムスを招聘している。若き貴公子シャルルのためにエラスムスは『キリスト教君主教育』(Institutio pricipis Christiani) を著している。以後もアントウェルペンバーゼル、ルーヴァンなどをまわりながら研究・執筆活動を続けた。[8]

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%87%E3%82%B8%E3%83%87%E3%83%AA%E3%82%A6%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%82%A8%E3%83%A9%E3%82%B9%E3%83%A0%E3%82%B9


痴愚神礼讃 - Wikipedia

痴愚神礼讃』(ちぐしんらいさん、希:Morias enkomion、羅:Stultitiae Laus)は、ネーデルランド出身のルネサンス人文主義者デジデリウス・エラスムスラテン語による諷刺文学である。1509年に執筆され、1511年に初版刊行された。訳題は他に『愚神礼賛』、『痴愚礼賛』などがある。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%97%B4%E6%84%9A%E7%A5%9E%E7%A4%BC%E8%AE%83