Übungsplatz〔練習場〕

福居伸宏 Nobuhiro Fukui https://fknb291.info/

[資料 2014-08-17]「これからの写真」展でのトラブル

◇ Nobuhiro Fukui(@n291)/2014年08月17日 - Twilog

【撤去しなければ検挙するといわれ、やむなく展示変更となった愛知県美術館展示について写真家・鷹野隆大さんに聞く|「『知』に対する行政府の安易な介入はその暴力をエスカレートさせていく危険を孕んでいる」 - 骰子の眼 - webDICE】http://j.mp/1kL3LXF

鷹野隆大さんの記事 http://j.mp/1kL3LXF を読みました。“美術館の「表現の自由」(あるいは「言論の自由」)”“美術館という場は、必然的に治外法権的な聖域である”“「知」に対する行政府の安易な介入”といった、いくつかの言葉が少しひっかかりました。

“美術館の「表現の自由」(あるいは「言論の自由」)”→美術館は、独立行政法人国立美術館法に規定されているはず。個人の「表現の自由」と美術館の「表現の自由」はこのように論じることが可能なのかどうか? “美術館という場は、必然的に治外法権的な聖域である”→明治期以降の近代化によって

生まれた日本の美術館制度が、海外のMuseumと同様の社会的使命を法律なり市民一般の社会通念なりによって担保されているのかどうかという疑問。それに、海外であっても“治外法権的な聖域”ではあり得ないのではないかということ。言論・表現の自由によって保護されないものとして、猥褻表現、

名誉・信用毀損的表現、営利・商業的表現などがあるようです(ただし、法学的には、こうした表現の是非を判断する基準が裁量によってはかられるため、それが罪刑法定主義的に妥当なのかどうかという問題があるとのこと)。 “「知」に対する行政府の安易な介入”→学問と美術を同列に並べていることに

違和感。両者を重ね合わせることで、ある種の読者の情動を喚起する言説になっていると思いますが、美術は美術の領域で立論すべきかと思います。もちろん、“行政府の関与を容易にする法律”の拡大を市民やメディアが慎重にウォッチしていくべきなのは言うまでもありませんが。

“芸術でもあっても猥褻であれば「黒」という点は変わっていません”→どの国、どの社会であっても、その点は変わらないのではないかと思います。変わるのは、「何が猥褻なのか?」といった基準だけなのではないでしょうか。ということもあって、本件を作品が猥褻かどうかという点で議論するのは

あまり生産的ではないことのように思われました。議論すべきは、美術館側が事前に弁護士と相談し、すでにゾーニングによって対処しているのに、それが無効だと判断されてしまったことであるとか、ある一人の市民による通告によって(美術の側のコミュニティではそれをクレーマーであると判断しがち

ですが、それは何とも言えません。同様に逆サイドの側に向かって憶断すれば、鷹野さんの作品に描かれていたような表象に対して、何らかの過去の経験によって心的外傷を抱えていた人が、たまたまそれを見てしまって、大きなショックを受けてしまい[略]とか、そのショックを受けた人の友人・知人が

善意の第三者として通報し[略]とか、いくらでもそれ以外のケースを考えることはできるでしょう。そうした“新事実”が明らかになったときの逆向きの感情的な沸騰も容易に想像できます)、ここまで簡単にこういった事態(撤去しなければ検挙という通告)に陥ってしまう社会的な構造、そもそもの

日本社会における美術館という存在のあり方、もっといえば日本における公共圏のあり方などを熟議し、それを社会一般の通念として浸透させないかぎり同様の事件は今後いくらでも発生することでしょう。それはさておき、先日から考えているのは、http://j.mp/1uI1vDS

コメント欄のいくつかのコメントに対して、自分ならいかに反駁しうるかということです。あと、刑法第174条と刑法第175条について学習しました。

話せば一瞬で終わることをわざわざtwitterに書いていたら約50分のロス。係り受けがねじれている文章もあったりとか。facebookのいくつかのスレッドとコメントがワイドショーの消費者化しているのを見てしまったのが原因。お仲間でうなずき合っていても何も変わらないのでは?

http://twilog.org/n291/date-140817/allasc


◇ Nobuhiro Fukui(@n291)/2014年08月19日 - Twilog

メイプルソープ裁判 http://j.mp/1tfKfSA http://j.mp/1tfKo8v http://j.mp/1tfKGMB の件はそれなりに注目していただけに、浅井隆さんの https://twitter.com/asaitakashi/sttus/501150360421924864… ネタには戸惑いました。

海牛目@Bumokita

「公権力、公権力」というが、美術を楽しむ一市民にとっては学芸員や批評家が美術の場における「権力」なのだ。一般の鑑賞者に対する不寛容な態度はやはり「対話」の成立の障害になってしまう。

浅井隆さんの https://twitter.com/asaitakashi/sttus/501150360421924864… ネタには、芸術や文化に関連する仕事をしている人々の無意識の特権意識を感じさせるもので(それが「権力」に対するからかいであるのは百も承知の上ですし、アップリンクの活動には注目していますが)、どうも上手く飲み込めません。

メイプルソープ裁判と鷹野隆大さんの一件を重ね合わせることで、「相対的わいせつ概念」の“文学作品や芸術作品の発表を萎縮させないよう、国家は猥褻物の規制に謙抑的であれ”を法理にすれば、法廷においては勝利できるかもしれません。しかし、ここで僕が気になるのは、メイプルソープ裁判の判例

「芸術性」による「猥褻性」の阻却という部分。この「芸術性」と「猥褻性」はいずれも裁量判断です。後者はもちろん行政によるものです。他方、前者は、美術を専門とする研究者や評論家、美術館関係者によるものとなるでしょう。いずれも裁量判断であるのだから、相手方の判断を批判することが困難に

なることが心配ですし(第三者からするとどっちもどっち?)、それにロバート・メイプルソープ級(あるいは鷹野さんのように日本では価値があるとされている新人賞受賞の過去があったり、いくつかの美術館での展示歴があったり、ギャラリーにリプリゼントされていたりするような)作家だけが

チャレンジングな展示をすることを許されるということになり、これまた排除を生んでしまうという結果になってしまいます。それに、今回の件は法曹関係者との事前打ち合わせやゾーニングによる配慮がここまで容易く打ち砕かれてしまうことが、やはり一番の問題だと考えます(もちろんどの程度の

ゾーニングをすればOKなのかどうかには恣意的な判断が入り込む余地を残してしまいますが)。しかし、ゾーニング規制の線で、社会的な議論や理解を喚起する方向性でいくのであれば、作品の「芸術性」の裁量判断をする必要もありませんし、誰もが比較的平等の条件で自主規制することなく展示をすること

ができる道が開ける可能性が見えてきます(そもそもこういうことを考えることのきっかけになったのは東京オペラシティ アートギャラリーの「森山・新宿・荒木」展。森山や荒木なら許されるのか?問題です。「猪木なら何をやっても許されるのか」的な…。若手がストリート・スナップを展示する場合の

さまざまな面倒な配慮)。ということもあって、「猥褻性」や「芸術性」について争う方向性は、ここ数年のネット上での“アート無罪”的な論争もあって得策だとは思えませんし、専門性をお持ちではない方々に美術の歴史・展開・現在の動向についての細かい部分を伝えることには限界があるので、そこを

突っついていっても、どうなのかなというふうに思います。根治療法になりませんし(あっ、私も特権意識が見え隠れ……)。訂正、物事を根本からみんなで考えてより良い方向に導いていくことになるとは思えませんし。……というふうな、ことを最近考えていたりしました。

あともう一つ。美術館アジール論に、私は与しないという話ですが(鷹野さんの言葉で言えば“美術館という場は、必然的に治外法権的な聖域である”)、なぜ、美術館の中に入った作品だけが、美術館の中に展示された作品だけが、無条件の保護を受ける権利を獲得できるの?という素朴な疑問。

http://j.mp/VzoDVW

「アートと社会」みたいなスローガンが、そこかしこで叫ばれるようになって久しいのですが、あれは一体なんだったのでしょうか?ただのお題目?美術館を聖域化するような考え方(社会というプラットフォームがあればこそのそれであるはず)に疑いもなく賛同してしまうような態度には疑問を持ちます。

もちろん、美術(美術館ではない)なりリベラルアーツなりを、イマジナリーな領域においてアジールだと措定することの、有形無形の効用(速効性はないにしても)はよくわかっているつもりではあります。しかし、この手のお決まりの論理を、それを支持する欧米の人々も同様に叫んだりするんでしょうか?

mizuki takahashi @mizuki0730
鷹野隆大さんの展示に対する警察の介入への抗議署名、あと60人弱足りません。http://www.takashiarai.com/wordpress/?p=201

このキャンペーンが鷹野さんや学芸員のNさんのうまく連携できているのかどうかも気になるところ。誰かが愛知県警に公開質問状(内容証明)を送っていたりするんでしょうか?それに、地元のリベラル系の県議や市議にもすぐさま相談すべきだと思うんですが、それはすでに行っているんでしょうか?

あと、そもそも日本の公立美術館が各地の教育委員会の管轄下にあったりすることが、SNS上のどなたのコメントにも見当たらないのも、何だか不思議なことではあると思います。

@mizuki0730 高橋さん、こんにちは。すでに読んだあとのツイートでした。新井さんが最初はノープランだったということに、ひどく驚かされました。本気で撤回を求めているのであれば、公開質問状を送ることも同時にやるべきだと考えます。それに、コメントのいくつかにも失望させられました

残念ながら僕の言いたいことや考えていることが、ほとんど伝わっていなかったようですね……<@wamulamo 一連のツイート、僕も同じような思いで例の事件を見てましたので、興味深く読ませていただきました。しかしゾーニングだけで違法性なし、とするのは現状では難しそうですね…

まあ、推敲もせずに場当たり的に書き継いでいってしまったので、非常に読みにくいということもあるのかもしれませんが。。。申し訳ないです。ということで、また読み直してみてください。不明な言葉があれば検索することをおすすめします<@wamulamo 福居さんの一連のツイート、概ね同意です

「猥褻性」が認められないとするためには「芸術性」による阻却が必要。ゆえに、「芸術性が認められないから違法である」という論理も同様に成り立つので苦しい、という部分を読みのがしているのだと思います。<@wamulamo …「猥褻性が認められないから違法でない」を目指す方が妥当かなあ

アーティストらしい素朴な意見なのが素晴らしいですが、一般的な大人としてはどうなんでしょう?法理という言葉の意味はおわかりですか?<@wamulamo 上手く読み取れずすみません。 「猥褻性」を阻却することができるのは「芸術性」だけなのでしょうか。 “「猥褻性」が認められないとする

メイプルソープ裁判の判例(なぜ最終的に勝訴になったのか)を調べることをおすすめします。<@wamulamo 上手く読み取れずすみません。 「猥褻性」を阻却することができるのは「芸術性」だけなのでしょうか。 “「猥褻性」が認められないとするためには「芸術性」による阻却が必要。

http://twilog.org/n291/date-140819/allasc


◇ Nobuhiro Fukui(@n291)/2014年08月20日 - Twilog

@wamulamo ちょっとあとでわかりやすくまとめますね。今晩はワークショップなので、明日になるかもしれませが。

大村秀章 愛知県知事が愛知県美の「これからの写真」の一件についてコメント。http://www.asahi.com/sp/articles/CMW1408192400002.html

http://twilog.org/n291/date-140820/allasc