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福居伸宏 Nobuhiro Fukui https://fknb291.info/

JOSHIBI CATP BLOG: 芸術表象論特講#16

西村さんは、映像や現代美術の評論を執筆されています。最近は、アニメーションの論文を執筆されたりしているそうです。
今回のレクチャーでは、「日本におけるアニメーションの概念」というテーマでお話してくださいました。
現在では当たり前のように使っている「アニメーション」という言葉ですが、日本で使われるようになったのは、おおよそ1960年代以降からでした。では、それ以前にアニメーションがなかったのかというと、そういうことではなく、アニメーションに該当する作品は存在しました。呼び方も別の言葉を使用していたのですが、アニメーションという言葉が使われないということは、その概念がないのと同じことです。
つまり簡単に言ってしまえば、戦前と戦後では価値観が違っているということなのです。

1960年代、アニメーションという言葉が使われだしたとき、それは何を指していたのか。森卓也『アニメーション入門』(1966)では、アニメーションとはコマ撮りによって作られた映画であると規定されています。それがこの時代に定着したアニメーションの概念でした。

そもそも、アニメーションはいつからあるのでしょうか。これには2つの考え方があるそうです。
ひとつは、エミール・レイノー「テアトル・オプティーク」(フランス、1882)からとする考え方と、もうひとつはスチュワート・ブラックトン「愉快な百面相」(アメリカ、1906)からとする考え方です。エミール・レイノーからとすると、アニメーションは映画よりも早く誕生したことになります(映画は、リミュエール兄弟が1885年に発明しました)。となると、スチュワート・ブラックトンが最初という捉え方になりますが・・・。この「愉快な百面相」は1907年に日本へ「奇妙なるボールト」というタイトルで入ってきました。日本はかなり早い時期、ほとんど同時代的に欧米のアニメーションが入ってきます。
初期のアニメーションは、舞台上で実際に絵を描いていく「ライトニング・スケッチ」の延長からきており、スチュワートが実際にトーマス・エジソンの似顔絵をスケッチしている映像を見せていただきました。
「愉快な百面相」は、黒板にチョークで描いているのをコマ撮りしたものです。切り絵なども用いて、動きをつけました。
漫画絵のようなアニメーションよりも先に、実写によるアニメーションの方がさかんに公開されていました。漫画のアニメーションで日本に最初に入ってきたのは、エミール・コール「The Musical Maniacs」(フランス、1910)でした。この作品は「凸坊新画帖」というタイトルで公開されました。ちなみに、タイトルは内容と関係ないそうです。その後に公開されたC・アームストロング「Isn't Wonderful?」(アメリカ、1914)も「凸坊の新画帖」というタイトルで、漫画アニメを公開する際にこのタイトルで公開することが一般化してしまったそうです。一度話題になると、同じ名前を使ったりする発想からきているようですが、制作された国や作家が違っていても全て同じタイトルなので、区別をつけるときは、サブタイトルに例えば「悪戯小僧の巻」と入れて変化を付けていました。「凸坊」とか「新画帖」だけでも漫画アニメであるということになり、また当時は漫画と言えば喜劇ものだったので線画喜劇とも言ったそうです。
他に、人形映画というのもありました。1930年に公開されたラディスラス・スタレビッチ「魔法の時計」(フランス、1930年)は、当時評判になった人形映画です。この作家の「カメラマンの逆襲」という作品を実際に見せていただきました。ラディスラス・スタレビッチが手掛ける映像に出演しているのは虫ですが、社会風刺の作品も多かったそうです。手法としては現代で言うクレイアニメに似ている気がしました。

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