Übungsplatz〔練習場〕

福居伸宏 Nobuhiro Fukui https://fknb291.info/

[資料 2014-11-30]アート四方山話

◇ Nobuhiro Fukui(@n291)/2014年03月02日 - Twilog

ビットコイン地域通貨、リアルポリティクスに関与するような実践や試行がなぜ作品ではないのか?という話題は、WSの第8期・第6回で出た話。その場では、最終的に制作主体の意識とその主戦場がどこなのかが問題というごく普通の議論になりました。http://j.mp/1hBT9oP

未だに19世紀的空気 http://j.mp/1bXnFKv が猖獗を極めているからこそ、20世紀前衛の亡霊を身に纏うかのような身振りがチープな戦略として有効だったりもするのでしょうが、その方向性であれば、むしろ口寄せによって亡霊を使役し異なる何かを出来させるべきなのでは…

というかごくごく当たり前の話になってしまいました。WSを含め僕に近い友人・知人の間ではネオコンセプチュアリズム的なものに対して懐疑的な人々が多いように思います。http://j.mp/1hBUlZx ↑で言えば、どうせやるなら単なる「憑依」ではなく「憑依させる(口寄せ)」。

ギャラリーベースに対してプロジェクトベースが優位であるかのような言説、それは本当なのでしょうか?もしそこで健全な関係性を築けていないような場合、前者はコレクターの顔色を、後者はキュレーターの顔色を伺うような事態が発生してしまいがちです。では健全な関係が保たれていることが多いのは?

↑というか、十年前に小野さんと話していた話題(四、五年前にはRさんとよく話題に)。社会に対する波及力にしても、後者のほうが優れているとは必ずしも言い切れないこともその頃に議論。それにその世界の全体的なシステムを下支えしているのは、やはり経済循環であるということ(循環=分配が重要)

(ある個人にとっての)プンクトゥム(的なるもの)=撒き餌=釣り針=批評素(笑)とか。社会学で言うところの「ゲーム盤」から退場する身振り(ジェスチャー ※私はむしろビヘイビャー[振る舞い]もしくはアクト[行為]を重視する立場です)を「ゲーム盤」の上で行うということのさもしさとか。

http://twilog.org/n291/date-140302/allasc


◇ Nobuhiro Fukui(@n291)/2014年03月03日 - Twilog

椹木さんが90年代末の時点で循環史観を提起したことには大きな意味があったと思います。しかし、それを信仰し寄り縋る者が出てきたのは残念なことでした。日本の戦後という奇妙な時代のなかで、人口スケールと内需がバランスしていただけのことで、そんなものがこれ以上存続するかどうかは不明です。

↑この“内需”は作品の売買による経済循環のみを指すものではありません。念のため。

奇妙な日本的アメリカン・モダニズム信仰こそが反知性主義ではないか?という論点とか。まあ、ありふれた話題ではありますけども。

http://twilog.org/n291/date-140303/allasc

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◇ Nobuhiro Fukui(@n291)/2014年02月27日 - Twilog

“芸術家は結果的には、奴隷的であるか横柄であるかのいずれかの立場を取ることを強いられ、本来的に限定的な二つの道のいずれかを選ばざるをえなくなる。観客がすでに知っていることを観客に与えて観客に媚を売るか、あるいは観客の気持を鎮めるか、さもなければ、観客に攻撃を仕掛け、彼らの望まぬ

ものを与えるか”(スーザン・ソンタグ『ラディカルな意志のスタイル』所収、「沈黙の美学」より)

"The history of art is a sequence of successful transgressions." by Susan Sontag ※こちらも的確。しかし、もちろんこの言葉も1960年代的なものではあるということを念頭に置いて考えるべきなのでしょう。

http://twilog.org/n291/date-140227/allasc


◇ Nobuhiro Fukui(@n291)/2014年02月28日 - Twilog

ソンタグが1967年に書き付けた一文に多くの人が反応する(その仕方はさまざまなのでしょうけども)のは、やはり未だに芸術が19世紀的なものから脱することができていないということなのでしょうか。http://j.mp/1huDVC1 http://j.mp/1huDV4Z

再々囀:アーティストも、ギャラリストも、キュレーターも、クリティックも、ジャーナリストも、それぞれの職能ごとに誠実に活動を継続しているかぎりにおいては、すべての存在がイーブンだという考えです。作品を生み出す作家だけが偉いとは考えません。すべてのプロセスにかかわる人々が重要です。

立体座標(8つの象限)

X:情報と事物

Y:生産と消費(流通)

Z:制度とリアル

幻想よりも限界を知るべき(北澤憲昭)

※以上、2006年6月のメモより
http://j.mp/1gGOq36

http://twilog.org/n291/date-140228/allasc

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◇ Nobuhiro Fukui(@n291)/2014年03月02日 - Twilog

雨宮庸介さんの「1300年持ち歩かれた、なんでもない石」http://j.mp/1pNN4tS についてもずっと考えているところ。「アーカイブ」(とその流行)に対する口承文学(や例えばDNA、さらにいえば消滅すること役目を終えること)の可能性は、以前から僕も話題にしている

ことですが、思考実験は思考実験として面白いものの、作家の立ち位置や作品のあり方にはかなり気をつけないといけないと思っていて(ヴィークルやコンテイナーの扱い、それを駆動する力学、その開放性と拘束性などなど)、雨宮さんの石の作品には個人的に抵抗感を覚えてしまう部分もあったりします。

DNAでいえばクーンズ http://j.mp/1pNPN6D を読み替えるとか、飴屋法水さんがすでにやっていたりとか、著名作家じゃないにしてもそれ以前にありそうだったりとか。読み替えで言えば、最近気になっているのが、ケージの「4分33秒」を視覚の作品として考えることとか。

http://twilog.org/n291/date-140302/allasc


◇ Nobuhiro Fukui(@n291)/2014年03月08日 - Twilog

【John Baldessari "A Painting That Is Its Own Documentation"(1966-68)】http://j.mp/MUTNCB ※「1300年持ち歩かれた、なんでもない石」の閉鎖性と開放性について対話したときに言及にした作品

【On Kawara「One Million Years」(1969-)】http://j.mp/MUU6gN ※「1300年持ち歩かれた、なんでもない石」の閉鎖性と開放性について対話したときに言及にした作品

【Agnes Denes「Tree Mountain - A Living Time Capsule - 11,000 Trees - 11,000 People - 400 Years」】http://j.mp/1w6pmP0 ※「1300年(略)石」の閉鎖性と開放性関連

http://twilog.org/n291/date-140308/allasc


◇ Nobuhiro Fukui(@n291)/2014年03月17日 - Twilog

あともう1つ付け加えておくと、バス・ヤン・アデル(Bas Jan Ader)の「遺作」http://j.mp/1nw8ey2 についても話しました。※「1300年持ち歩かれた、なんでもない石」の閉鎖性と開放性について対話したときに言及にした作品

http://twilog.org/n291/date-140317/allasc