Übungsplatz〔練習場〕

福居伸宏 Nobuhiro Fukui https://fknb291.info/

[資料 2015-02-03]パレルゴン、台座、冨井大裕「今日の彫刻」、アンソニー・カロ

>>>Anonymous Installation, Tokyo Station Underground Concourse, January 25, 2014 (after Shigeo Anzai [Anzaï]?)
















http://d.hatena.ne.jp/n-291/20140126#p2


◇ Nobuhiro Fukui(@n291)/2014年01月23日 - Twilog

やまももも@yamamomomo

冨井大裕の<今日の彫刻>写真のようなものは、非常にコンセプトが明解であり、またそれが明解すぎるが故に或る意味「作品」としては「完結」しており、あとは何百枚撮ろうと構成的な良しあしというところでひとつひとつの「写真」としての評価軸が決まっていく感じだ。

冨井大裕さんの<今日の彫刻>についてですが、これは当然起こりうる意見だと思います(むしろ誰もわざわざ口に出さないだけで)。もちろん、こうした意見に対する応答についてもいくつかのパターンが想定されますが、そのときにどういった方向性のコメントになるのかは興味深いところです。

http://twilog.org/n291/date-140123/allasc


◇ Nobuhiro Fukui(@n291)/2014年01月26日 - Twilog

【after Shigeo Anzai (Anzaï)?】http://j.mp/1aVjSrj ※前々回と前回 http://j.mp/15TYbFo http://j.mp/1aVkEok

http://twilog.org/n291/date-140126/allasc


◇ Nobuhiro Fukui(@n291)/2014年01月28日 - Twilog

@rob_art そもそもホワイトキューブというフレーム(パレルゴン)の中に何がしかのモノを配置すれば、インスタレーションになりますね。それが、サイト/ノンサイトのサイトであれば、台座なり、それこそ記録写真なりといったフレームがあればインスタレーション(的)になったりという。。

@rob_art 目撃者の話は鑑賞体験の問題ということでしょうか?「今日の彫刻」は、モノの異なる様相、モノの機能や使用方法の拡張性、場や空間とモノ、モノとモノとの併置、テンポラリーかつエフェメラルな性質の定着など、冨井さんならではの彫刻へのまなざしが感じられて興味深いです。

@rob_art 今さらExpanded Fieldでもないですが、しかしそうした冨井さんの彫刻に対する態度を読み取らず、単なる写真=フレーム=台座=パレルゴンによるオブジェ化の効果や趣味性だけで、それを受容するのだとしたら、それはまたしても残念なことになっているとしか思えません

http://twilog.org/n291/date-140128/allasc


◇ Nobuhiro Fukui(@n291)/2014年09月08日 - Twilog

TOMII Motohiro@mtomii

昨日でOngoingの個展も終了。その前日のトークも多くの方にご来場頂きました。参加頂いた皆様、登壇頂いた林さん、福居さんありがとうございました。今回の展示とイベントは、自分のキャリアとart centerで展示することの意義を考えてやったところがありました。続

TOMII Motohiro@mtomii

その意味で、普段の個展ではメインで展示することのないものに焦点をあてた展示になりました。ただ、メイン(と現状思われる)作品と並走する仕事には自分の今後を方向付ける因子が入っていると思うので、それを開けっぴろげることには意味があったと思っています。続

TOMII Motohiro@mtomii

そして、こういう展示には、自分にとって良くないであろう因子も(通常、ぼやけているものが)明瞭に見えてきたりもします。この危うさの露呈も開き直ればart centerで個展を行うことの醍醐味であるように思いました。

TOMII Motohiro@mtomii

続き 今回のトークイベントではアンソニーカロを起点に話を始めましたが、この中での林さんと福居さんとのやりとりから、近年、気にしている造形と彫刻(の現在における活用方法)に対して、僕が作品で関わるべき方向性を反省、確認することができました。これは非常に収穫でした。続

TOMII Motohiro@mtomii

ただし、イベントも含め、来場者の興味にどれだけ応答することができたのかはちょっと疑問。その点では不親切な展示であったかもしれないし、カジュアルといいながら、ハードなイベントであったかもしれません。来場者された方には感謝とともに今後の活動も懲りずにご期待頂けることを切に願います。

冨井大裕さんはその代表的な作品によって、日用品を使用するポップでカラフルな作風だと思われていようとも、本人の“彫刻のど真ん中”を撃ち抜いていこうという企図は一貫していて、それを改めて伝えるために、昨日までのオンゴーイングの個展があったのだと理解しました。

そのためには、「今日の彫刻」と「ゴミ写真」を詳細に読み解いていく必要があるかと思って、ガブリエル・オロスコ、リチャード・ウェントワース、トニー・アウスラー、スティーブ・マックイーン(パリの写真作品)、ザッセ、パー、荒木、サッセン、エルム、エスリッジ、ラスリーなどの資料も用意したの

ですが、そういった議論を深める展開にはならなかったのは、トークの反省点。オロスコやウェントワースについての冨井さんの反応に、僕がうまく対応できたかったのは、やはりまずかったのかなと。似ている作品を提示されたときの作家の反応はそれとして、根本の部分で明らかに違う部分があるのだから、

そちらの話に持ち込めなかったのは僕ミスだと思います。林さんがフリード経由で提起されたシンタックスによって、どんなメディウムのものでもユニバーサルに語りうる方途が提示されたのも、僕が上手く話を持っていけなかった原因。わかりやすいかなということで(実はそれは目配せにすぎない効果)、

フォトグラファーズ・アイに対するスカルプターズ・アイみたいな話に持ち込もうとしたのも、まったくの不発でした。もちろんそこにこそ可能性があると、僕は思っているのですが。「写真として……」という、おそらくは「ゴミ写真」の作品などについて、比較的語られるであろう言葉についても、結局は有効な議論が

まったくできなかったという。。(トークの標題がアンソニー・カロだったということによる難しさもあるとは思いますが)。ということで、機会があれば、その続きを何らかのタイミングで話し合うことができればと思っています。

http://twilog.org/n291/date-140908/allasc