Übungsplatz〔練習場〕

福居伸宏 Nobuhiro Fukui https://fknb291.info/

メモ

浅田彰草間彌生の勝利】「手帖 1999」第5回(『波』1999年7月号 新潮社 刊)

 ちなみに、東京都現代美術館では、草間彌生の回顧展と並んで、荒木経惟の写真展が開かれている。コラボレーションや対談も行なっているとはいえ、実のところこの2人ほど対極的な存在はない。ひとことで言えば「本もの」と「偽もの」、あるいはニーチェの言葉で言えば「強者」と「弱者」というところだろうか。実際、「センチメンタルな写真、人生」と題する荒木経惟展に見られるのは、まさしくセンチメンタルな私小説の写真版でしかない。妻との新婚旅行。その妻との死別。妻の死後、空っぽのヴェランダから空を撮り続ける写真家。そしていま、そのヴェランダにはカラフルな花々が溢れ、写真家の分身であるらしい爬虫類のフィギュアが這い回っている。死を超えた生の横溢? いや、そこにあるのは、そういうセンチメンタルな物語にすがることでしか生きられないひ弱な「私」、しかも、そのような自分を売り物にして弱者の群れの歓心を買おうと計算するさもしい「私」でしかないのだ。もちろん、「弱者」は実際にはつねに多数派であり、その意味ではむしろ強者といってよい。現に、一昔前なら私小説に夢中になったであろうひ弱な「文学青年」たちが、「写真評論家」や「美術評論家」を自称し、寄ってたかって荒木経惟の「私写真」を「芸術」に祭り上げてしまったのであり、その展覧会は、草間彌生展を上回る数の大衆を惹きつけているのである。何よりも問題なのは、どうやら写真家自身が自分でも「芸術家」のつもりになっているらしいことだ。百歩譲って言えば、『写真時代』(白夜書房)などの「エロ雑誌」で猥褻表現の限界をめぐって警察とゲリラ戦を展開し、「恥部屋」と称する狭い空間の壁から天井からすべてを女性器の写真で埋め尽くしていた頃の荒木経惟の写真は、いわば徹底して薄汚れてあることによって、逆に一種のマイノリティとしての気概を感じさせた。いま残されているのは、希薄化されたその形骸でしかない。写真そのものはもとより、プリントやディスプレイからしてすでに、徹底してチープでもなければ、徹底してゴージャスでもない、つまりは、いかにも中途半端なのだ。それにしても、こういうウェットな感傷にまみれた薄汚い写真が日本の現代芸術の代表とみなされ、公立の美術館で大規模な展覧会が開催されるというのは、なんという倒錯だろう。

http://www.kojinkaratani.com/criticalspace/old/special/asada/techo05.html
文芸誌『波』にて発表された当初、写真関係者の間でかなり話題になった文章とのことですが、荒木経惟さん(アラーキー)を高くしていた人々(評論家?)からの擁護なり反論なりはほとんどなかったようです(いずれ要確認)。