◇ Nobuhiro Fukui(@n291)/2017年12月23日 - Twilog
結局いまだに飯村隆彦さんの「くず」(1962年)を見れていなかったりとか。“ゴミ”を撮るコンセプチュアルな映像作品(写真作品)の系譜は昔からありますが。【レッスン 10 「日本の実験映像(2)- 飯村隆彦 - 構造とコンセプチュアル」 | Visual Philosophy Lesson】http://vplesson.ref-lab.com/?eid=911344
Takahiko Iimura「Kuzu(Junk)」(1962)の部分は、こちらで少し見ることができますけども。https://youtu.be/HztkeyUcCJ8 写真でいえば、東松照明の"ground"に向かう視線とか、安部公房のゴミの写真とか(ただし、こちらはそのキャプションの言語作用についての無頓着さについて、いろいろと論点あり)。
東京造形大学の授業用のようですけども、河合政之さんのこの一連のブログとても良さそうです。彼はとてもインテレクチュアルな方なので、SNSをやる気はないと、2013年の札幌でお会いしたときに、おっしゃってましたけども(インテリだからSNSやらない、は私の勝手な想像)。http://vplesson.ref-lab.com/
“いわゆる「映画」を求める観客から、時に猛烈な反発を受けることがあるのは、そのためではないか。つまりそれは徹底して主観的であるために、エンターテインメント的な受け身の映像体験に慣れた観客をいらだたせるのだろう”http://vplesson.ref-lab.com/?eid=911344 という指摘も、いろいろと考えさせられます。
https://twilog.org/n291/date-171223/allasc
-
-
- -
-
◇ Nobuhiro Fukui(@n291)/2018年02月07日 - Twilog
安部公房『内なる辺境/都市への回路』https://www.amazon.co.jp/dp/4122064376 は、ワークショップ用資料としては、実物を確認してからという感じでしょうか。『都市への回路』(1980年)は、ちょくちょく使ったりもするのですが、いつも話題になるのは安部公房の写真それ自体のポテンシャルに対する、キャプション=
言葉のあり方が孕む問題点。『箱男』(1973年)あたりから継続している(もっとそれ以前?)興味関心が、そのまま反映している写真群なのだとは思いますが、小説家すなわち言葉の人である安部公房の映像への言語的配慮は、果たしてどうなんだろうという。日吉的な写真のモダニズム的な価値観では真っ先
に批判&否定されるであろう、スチル・イメージに対する言葉の使い方(写真[+言語]自体はスタイルこそ違えども、内藤正敏『東京』とも通底する部分もある?戦前・戦中・戦後の都市の変遷を目の当たりにしてきたこととも関連?)。それはそうと、言語と写真という意味では、鬼海弘雄さんなどもWS
では取り上げたりしますが(まあ普通)、安部公房の小説と写真(散文と写真とその在り方ではなく)でいえば、アンドレ・ブルトン『ナジャ』から安部公房、そしてW.G.ゼーバルトの作品群に至る(本当はもっと色々あり?ミシェル・ウエルベック『ランサローテ島』の写真の在り方は、まあちょっ違う)
テクストとスチル・イメージの在り方については、もっと考えていきたいところ。自分でも何か作品ができるかな?ということで少し掘ってはみたものの、そのまま塩漬けになっている状態。あと、ワークショップで使う資料としては、ジャック・デリダ&マリ=フランソワ・プリサール『視線の権利』。
『視線の権利』は日本語版ということもあり、ページネーションの都合で確か逆版であり、オリジナル仏語版だか英語版を米amazonのカートに突っ込んでいたものの、そのまま。フォト・ロマンということでいえば、エルヴェ・ギベール『写真書物』はWSで使ったり。ミシェル・フーコー関連でもあります。
安部公房『都市への回路』(1980年)所収の写真の話でいえば、冨井大裕さんはもちろんのこと(?)、ガブリエル・オロスコ、リチャード・ウェントワース、トニー・アウスラー、スティーブ・マックイーン(パリの写真作品)、イェルク・ザッセ、マーティン・パー、荒木経惟、ヴィヴィアン・サッセン、
アネット・ケルム、ロー・エスリッジ、エラッド・ラスリーなど https://twitter.com/n291/status/562378098834821121 との比較検討も重要なこととなるのかもしれず。とりわけ、テイストと趣向でいえばトニー・アウスラー、スティーブ・マックイーンとは結びつくでしょうし、趣味趣向では異なるもののということでいえば冨井大裕さん
の「今日の彫刻」や「ゴミ写真」と、安部公房の写真の在り方を比較することによって、それぞれ目指されているものや、個々の可能性などが、より明瞭に見えてくるのではないかな、と思ってはいます。
安部公房が木村伊兵衛賞の審査員を担当した1981年度の木村伊兵衛写真賞受賞作が渡辺兼人+金井美恵子『既視の街』。http://www5a.biglobe.ne.jp/~outfocus/tyyle-camera/iheishou/iheishou%20list.htm… この作品についても、写真と言語の在り方という意味で考察をすべきでしょうか。