■隠れた影響、そして文化政治としての哲学
ここではSRに影響を与えているだろう、しかしあまり表立って言及されることの少ない哲学者を何人か挙げ、それぞれがSRにおいて受け持っている概念も同時に記しておく。
・フランソワ・リオタール:非人間的なもの
・ジャン・ボードリヤール:カタストロフ
・E・M・シオラン:ペシミズム、アンチ・ヴァイタリズム
・フランソワ・ラリュエル:非‐思考
また、人物からの影響ではないものの、次の分野からの影響も重要なものとして指摘しておきたい。
・ノイズ・ミュージック、フリー・インプロヴィゼーション→予測不可能なもの
どちらも偶然性の本性への問いを含んでいるという点を鑑みれば、SR周辺とノイズやフリー・インプロヴィゼーションのシーンが密接な関わりを持つことはそれほど意外ではないはずである。しかしある意味で見逃せない事柄は、これらのシーンで大きな役割を果たす『The Wire』のような雑誌が帯びる「クール・ブリタニカ」という記号と、そしてデリダ派に対するドゥルーズ派の戦いというSRと新唯物論(New Materialism: NM)周辺で出来上がった構図とが、微妙なズレを孕みながら重なり合うことで生じてきた文化政治的な効果の問題である。
■日本におけるスペキュラティヴ・ホラー
日本におけるホラーの想像力を検討する。日本的な「物の怪」の想像力はまさに即自(in-itself)に対する想像力のある種の形式であるとは言えないだろうか。またこのような視点から、妖怪を非抑圧民の形象と重ねつつ、民衆の唯物論的な歴史へと接続しようとした小松和彦や網野義彦の議論に、新しい読解の可能性を見出すことができるかもしれない。むろん近代以降の怪奇小説の成立と、それ以降進んでいった汎ジャンル小説的状況の意味についても、こうした観点からの考察を行うことが可能ではないかと考える。
→泉鏡花や小泉八雲、さらに柳田國男などの「怪談」スタイルからの離脱、近代化の恐怖
→Sci-Fi からの影響、科学的思考と形而上学的内省の混合、冷戦構造に規定された核の恐怖
・Jホラー=鈴木光司、瀬名秀明、黒沢清、清水崇、押切蓮介・・・・・・
→メディア化された恐怖、無限に反復可能なテクノ・イメージからくるパロディと紙一重のホラー
■ホラーの哲学の本質的論点
前半で述べたホラーとSRの関係に照らして、二点だけ明記しておきたい。
・解釈による内容の変化可能性を持たないようなもの(リテラルなショック)→唯物論的、ただし表象可能なもの
・科学的描写を許容し、内在的に体系化され得るものであること→スピリチュアルではなくオカルティック