Übungsplatz〔練習場〕

福居伸宏 Nobuhiro Fukui https://fknb291.info/

暮沢剛巳“「風景」とナショナリズム──志賀重昴『日本風景論』を読む”より

 「国粋主義」の微妙な問題は、「政教社」の同僚であった陸の「国民主義」と対比すればわかりやすいだろう。「国民主義」は「国家・皇室・内閣・議会を一体のものとみなし、それを衆民社会の上に位置づける」ことを目指した思想であった。この「四位一体」は明らかに「国体」論を念頭に置いたものであり、ゆえにその中心に位置する天皇の機能が大いに重視されることになる。明治天皇が在任中六度にわたって全国を回った巡行や、プロシア国王を真似て軍服・軍刀を身につけた姿で写真に収まった「御真影」が大量に流布したことは、「国民主義」の立場からは大いに歓迎すべきことである。一方、志賀の言う「国粋主義」とは、全国各地に偏在する名所や旧跡を可能な限り網羅することによって日本の「風景」の「洵美」を強調しようとする立場であった。唯一無二の天皇の求心力に依拠した「国民主義」と、無数の「国」の「粋」を総合しようとした「国粋主義」。しばしば同一視されてきた両者は、最終的な目的を同じくするとはいえ、互いに逆の力学を志向し、相補的な関係の下に成立していたとも考えられるのである。
 あまりにスタンダードな文献であるため今さら参照するのも気が引けてしまうのだが、『想像の共同体』においてベネディクト・アンダーソンは、「国民とはイメージとして心に描かれた想像の政治的共同体(magined political community*1)である──そしてそれは、本質的に限定され、かつ主権的なもの[最高の意志決定主体]として想像される」と述べている。ほとんど同時期に、それも同じ政治結社の一員として行動をともにしていた二人のイデオローグによって説かれた「国民主義」と「国粋主義」の相補的な関係は、当時の日本のナショナリズムがまだまだ未成熟であったことを物語っているだろう。明治維新による近代国家の成立後、初の大規模な対外戦争であった日清戦争の勝利は、それに酔いしれる多くの「国民」の成立を促すことになった。そしてそれは、「外邦の客」の視点によって相対化された(偽装された?)「洵美」なる日本の「風景」の発見にも繋がっていく。

『「風景」という虚構』所収
http://bookweb.kinokuniya.co.jp/htm/4434067087.html
http://www.amazon.co.jp/dp/toc/4434067087


志賀重昂『日本風景論』における科学と芸術──無媒介性と国粋主義 安西信一
http://www.tsac.jp/ronbun/ronbun_11/anzai_11


◇ 近代風景観の成立とナショナリズム──志賀重昂の『日本風景論』を中心として──  帆苅猛
http://opac.kanto-gakuin.ac.jp/cgi-bin/retrieve/sr_bookview.cgi/U_CHARSET.utf-8/NI10000633/Body/link/03hokari.pdf

*1:原文ママ おそらく脱字です。→imagined political community