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福居伸宏 Nobuhiro Fukui https://fknb291.info/

保坂和志 世界はこんなふうにも眺められる「第20回 “文”の持つ不羈の精神」 - Web草思

 日本では小説のことを現代社会を映す表現手段だと思っている人がほとんどだ。芥川賞の選評を読んでも、「都会に生きる現代の若者の心のありようがうんぬんかんぬん」「高度経済成長の波にさらわれたあとの地方の人々の心のありようがうんぬんかんぬん」と、そんなことばっかりで、これでは月刊誌あたりの特集記事と変わらない。
 一方で、夏目漱石の『坊っちゃん』やドストエフスキーの『罪と罰』についてはどう言うか? 「人間の心というのは百年経っても本質において変わらない。それゆえ現代に生きる私たちの心に訴えかけるところがうんぬんかんぬん」と、普遍性を強調する。そういうことを言っている同じ人物が、これらの作品が書かれた時代にタイムスリップして批評するとなったら、「現代の若者の心のありようがうんぬん……」と言うことになる。
 これらの批評は阿(おもね)っているのだ。何に阿っているのか? いま自分がいる社会の支配的な価値観に、だ。「通りのいい言葉」と言い換えてもいい。「社会の支配的な価値観」が「通りのいい言葉」を生むのではなく、「通りのいい言葉」の集合体が「社会の支配的な価値観」になっていくのだから、「通りのいい言葉」によって何かを語ることがそのまま“文”に生きた人たちの不羈の精神の歴史を裏切ることになる。
 小説とは、現代社会を映す表現手段などという小さなものではなく、私たちが世界を認識するための言葉や概念を新しく作り出していくための媒体なのだ。

 “文”に対する決意の弱い人たちは、現実の“負”の側面に弱い。犯罪を題材にしたミステリー仕立ての小説が現在さかんに書かれているのも、ひとつにこの前兆が背景としてあるんじゃないかと私は思う。人は小説を読むときに、現実の肯定的側面が書かれていると「浮ついている」と思い、“負”の側面が書かれていると「リアリティがある」と感じるという、愚かで歪んだ習性がある。犯罪を題材にした小説のリアリティは、読者のその習性に寄りかかって外から借りてきたまがい物のリアリティでしかなく、小説自体の運動から生まれたリアリティではない。

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