Übungsplatz〔練習場〕

福居伸宏 Nobuhiro Fukui https://fknb291.info/

No3.「意識産業・装置産業」 2004.6.20 - TBSメディア総合研究所

 「意識産業」という言葉は、おそらくエンツェンス・ベルガーが使って以来定着したのだと思うのだけれど(違うかな…)、何故そんなことを思い出したかというと、佐藤忠男さんの「キネマと砲聲/日中映画前史」を読んだからです。この本は1985年にリブロポート社が刊行し、今は岩波現代文庫として再刊されています。
 戦前の中国映画界の中心だった上海の状況、例えば国民党と共産党の確執と中国映画人の屈折した制作活動のことや、あるいは日本の洋画業界の先達として知られている川喜多長政氏と中国との関係について、この本を通して多くのことを知りました。
 しかし、今回メモしておきたいのはそれとは違うことです。
 旧満州国の新京(現長春)に国策映画会社「満映」が設立され、その指導的人物がかの甘粕正彦であったことは知っていました。また、その「満映」が、まさに「意識産業」として目論んだことが、文化政策としてはまとこに拙劣としかいいようのない実態であったことも想像するに難くありません。事実、そのとおりだったわけです(勿論、巧みにやれば良かった、という話は別です)。さて、その「満映」の映画設備や機材が、1945年8月15日を境に共産党、国民党、ソ連軍の何処が支配するかという争奪戦がありました。このことは、「幻のキネマ・満映」(山口猛平凡社)にも描かれていましたが、佐藤さんの本で改めて興味深く読みました。
 このとき、映画という文化様式が権力抗争の焦点に否応なく押し出されます。文化、とりわけ映画のよう組織型の文化は政治とは無縁ではいられない、また政治は文化を支配することが第一級のテーマであるという典型的な状況が現出したのです。
 ここで、「意識産業」である映画は、同時に「装置産業」であることが見事に露呈されます。「装置産業」であるが故に、その装置の支配が権力関係の焦点になります。古典的に言えば、政治組織が印刷所を自前で持つことの意味と通底します。政治は意識を支配することで完成しますが、そのためには装置の支配が必要だということでしょう。
 ところで、現代はこうした従来の「規律訓練型権力」から「環境管理型権力」への移行が進行していて、「その変動を技術的に支えるのがネットワークやユビキタスコンピューティング」だ、と言われています(東浩紀大澤真幸自由を考える/9.11以降の現代思想」)。この「環境管理型」を21世紀型政治構造だとすると、そこでは「装置産業」という概念は成立するでしょうか。ネットワークのインフラ形成には巨額の設備投資が必要ですが、インフラの所有者がそこを流れる情報(コンテンツ)主体ではありません。これは、「誰もが情報発信者になれる」というネットワーク社会のメディア構造が産業レベルに反映し、装置を持たない意識産業が成立しているということです。 情報分野のレイヤー化という政策は、このことを意味しているといえましょう。

http://www.tbs.co.jp/mri/media/media040620.html