HH しかし、彼らは自ら知識人だとは考えていないでしょう?
PB いや不幸にも、そう考えているんですよ。彼らは、自分たちのイメージに合わせて、すなわち、彼らの寸法に合わせて知識人像と、その機能を再定義しようとしているのです。言わば『居酒屋』や『ジェルミナル』を書くことなしに、「わたしは弾劾する」を発表している〈ゾラ〉、『存在と無』や『弁証法的理性批判』を書くことなく請願書名をし、デモに出掛ける〈サルトル〉といった手あいなのです。彼らはテレビにたいして、昔なら、おおよそ研究と仕事の人目につかない生活によってしか獲得できなかった名声をくれ、と要求しています。彼らは知識人の役割を、外側の身ぶり、外側の目に見える部分、宣言やデモ、自分をひけらかす公開の場においてのみ維持しようとしているのです。要するに、もし、彼らがかつて知識人に偉大さを付与していたものの根本的な部分を放棄していないのだとすれば、これらのものすべては、まったく重要ではなくなるでしょう。昔の知識人に偉大さを与えていたものとはつまり、世俗的な誘惑や要求にたいして自分の独立を保ってゆくことのうちに、そしてまた、芸術や文学的領域の独自の価値観にこだわってゆくことのうちに、自らの基盤を見出してゆく批判的素質のことです。彼らは、批判意識も倫理的信条も技術的能力も持たぬまま、今日のあらゆる問題にたいして態度表明をするので、おおよそいつも、現体制の方向へと進むことになるのです。
HH 民主的な社会というのは、自己批判を含めて、批判を推奨しなければいけない、そして批判は、デモクラシーが生き延びるためには欠かすことができないものであることは確かですね。
PB あなたがおっしゃっていることが、この上なく明瞭に現れるあらゆる領域のうちのひとつが、もちろん社会科学の領域だと思います。社会学者や歴史家は、社会界(モンド・ソーシャル)の働きについての科学的な分析をするために、お金を支払われています。しかしながら、フランスの科学哲学者のひとり、ガストン・バシュラールが語っているように、「隠されているもの以外の科学など存在しない」わけです。すなわち、社会に関する科学が生まれるや否や、それは不可避的に隠されたものを暴きだし、とりわけ支配者にとって、暴露されてはこまるようなものを、あらわにするというわけです。
まさにわたしたちは、そのことを現に行いつつあるのです。おそらく、たとえまだ非常に部分的ではあっても、また特殊な点についてではあってもです。メセナとは、それがうまくいっているのはそういった支配の一形態である、と認識されていない事実のお陰なのです。あらゆる象徴的な支配というものは、無知をベースに行使されています。つまり、支配をこうむっている人たちの共犯関係を伴っているということです。 (略)
http://www.amazon.co.jp/dp/4894340399
P92からP93にかけてのピエール・ブルデューのコメントも併せてどうぞ。
◇ 自由―交換 制度批判としての文化生産 - 藤原書店
知と芸術は自由たりうるか?
ブルデューと、大企業による美術界支配に対して作品をもって批判=挑発し続けてきた最前衛の美術家ハーケが、現代消費社会の商業主義に抗して「表現」の自律性を勝ち取る戦略を具体的に呈示。ハーケの作品写真も収録。
http://www.fujiwara-shoten.co.jp/shop/index.php?main_page=product_info&products_id=289
◇ 美術家の言葉ハンス・ハーケ - ピースフル・アートランド びそう(パルビ)
http://www.b-sou.com/palw-Haacke.htm
http://www.b-sou.com/