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福居伸宏 Nobuhiro Fukui https://fknb291.info/

Out of Tokyo | 184:触媒としてのネグリ 小崎哲哉 - REALTOKYO

個人的には、ネグリが来日したとしても、新しい知見をもたらすようなことはなかっただろうと思う。「マルチチュード」という人口に膾炙した表現は、本人の言葉を借りれば「主体の多様性」であり、「生産的な<特異性>の集まった階級」であり、「自由に自己表現し、自由な人間の共同体を構成する主観性の大いなる集合的地平」である(『ネグリ 生政治的自伝――帰還』より)。アウトノミア運動の理論的指導者として、旧左翼の党派性や全体主義的傾向を批判するのは当然だとしても、こういった定義では浅田彰に「有象無象」と訳されても仕方がない(『文學界』2004年11月号所収「シンポジウム 絶えざる移動としての批評」)。同じシンポジウムで、柄谷行人は「帝国とマルチチュードというのは、一九世紀半ばにマルクスブルジョア階級とプロレタリア階級に両極分解するといったのと似ていて、あまりにおおざっぱすぎる」と喝破している。

『芸術とマルチチュード』に収録された「トニ・ネグリとは誰か」という文章で、『<帝国>』の共著者、マイケル・ハートは以下のように記している。「ネグリアンガージュマンに固有の特徴のひとつは、知識人たちのさまざまな企てはつねに集団的かつ協働的な活動を必要とするという彼の考えにある。概念を形成することですら、ひとつのグループ活動なのである」。上述したように、KDAやKANDADAは(おそらく)ネグリと直接の関係はない。だが彼らのような動きこそ「ネグリ的」「マルチチュード的」と呼べるのではないだろうか。

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