Übungsplatz〔練習場〕

福居伸宏 Nobuhiro Fukui https://fknb291.info/

清水穣『白と黒で──写真と……』(現代思潮新社)より その2

 別の意味でわかりやすい、つまり消費しやすいのがホンマタカシ『東京の子供』(リトルモア、二〇〇一年)であろう。この人の『東京郊外』は、「スーパーフラット」な東京郊外のウサギ小屋を、美術界で大流行の「タイポロジー」で撮影して日本写真界に持ち込んだ、企画ものであった。七〇年代に荒木経惟が広告の「リアル」に「私」を賭けたのは、広告ではない自我が辛うじて存在しえたからだが、現在の我々にそのようなものはない。だからかつてラディカルな行為も、今は計算ずくの自己プロデュースにしか見えないのである。つまり、ホンマタカシホンマタカシのプロデューサーだということだ。アーティストではなく上手なプロデューサーであること自体は、メジャーを目指して自己に適した手段をとることだから批判されるべき筋ではない。しかし、制作からプロデュースから批評まで自己完結した彼の写真を他人が「見る」必然性がどこにあるのだろう。ステレオタイプの作品には「これは広告です」というメッセージのほか何も写っていない。次作は「東京の女」かと期待していたら「ニューヨーク」であった(さすが)。
 川内倫子『うたたね』『花火』(リトルモア、二〇〇一年)は、一見、癒し系日常写真に見える。しかし例えば、美しい色彩で泣かせどころを押さえた佐内正史『生きている』(青幻舎、一九九七年)に比べると、『うたたね』の知性が、撮影意図が透けるのをとりあえず抑えていることがわかるだろう。それはおそらく要らぬ配慮というもので、『花火』を見れば、ピクトリアルな技巧派としての才能は明白であり、それが花火の浮き立つような高揚感と、流れ落ちる光を浴びる興奮を見事に表現している。けれども『うたたね』での配慮、『花火』での長所は、専ら正方形の画面に頼りきったものだ。正方形の画面は、通常の風景の横位置画面よりも、奥行きが約(つづ)められた分だけ、画面に一種の溜めが出来る。それによって出過ぎを嫌う作者の自己はうまく遠ざけられ、写された風景はやや切り下げられて、箱入れオブジェのようにまとまる。つまり、正方形のフレームは写真を「作品」として完結させる簡便な技法なのである。実際、若手で正方形を使用する作家が目につく。金持ちはハッセルブラートと使うであろうし、貧乏人はポラロイドを使うであろう。ポラロイドならオブジェ性がさらに強調されるから一石二鳥というわけである。
[P157-158]

http://www.gendaishicho.co.jp/mokuroku/sirokuro.htm
http://www.amazon.co.jp/dp/432900433X



▽初出は『美術手帖』2002年4月号。「批評の不在、写真の過剰──1990年以降の現代写真とティルマンス」。
▽清水穣さんの身も蓋もないきわめて厳しい論調(メディア芸者的語り口に比して)からすると、
 やはりホンマタカシさんや川内倫子さんの写真は、清水さんの趣味じゃないということでしょうか。
 そういえば、メディアに露出の多い写真家(フォトグラファー? カメラマン?)を
 きっちりと論評するような(少なくとも言うべきことを言う、言いにくいことも言ってしまう)批評家は、
 きまって商業媒体に露出しなくても食べられる人々(それとは別に本業がある)のように思います。
 商業媒体やその周辺でやっていくほかない人々は、
 お得意様をけっして悪く言わないのが特徴です(未来のお得意様になりそうな相手ももちろん含む)。
 なんだか、鎌田哲哉さんの「経済的自立は精神的自立の必要条件である」というテーゼを思い出しました。
 http://d.hatena.ne.jp/n-291/20051222#p6
 http://d.hatena.ne.jp/n-291/20051228#p14
荒木経惟さんはどう見ても「計算ずくの自己プロデュースにしか見えない」のに、嫌みな感じがあまりしないのは何故か?
 そういえば、浅田彰さんは、荒木経惟さんと森山大道さんをまったく認めていませんが……中平卓馬さんは絶賛。
 あと、たしか東京都現代美術館に所蔵されている作品に、荒木さんがホンマさんとよく似たスタイルで撮影した
 ニュータウンの住宅の写真(やや色が濃いめ?)があったように思います。
 現在、東京都現代美術館の常設の最後の部屋(宮島達男さんルーム)に
 ホンマさんの『東京郊外』が展示されています(2〜3点だったと思います)。
 しかし、薄暗い部屋なので光の状態が悪くて
 何だかイマイチでした(色彩が重要なファクターを占めるということでしょうか)。
▽「計算ずくの自己プロデュース」で思い出すのは、ホンマさんと同様に
 日芸日本大学藝術学部写真学科)→ライトパブリシティというルートを経由して
 フリーランス・フォトグラファー(カメラマン)になった
 digi-KISHIN! a.k.a. シノヤマキシン氏(しのやまきしん名義も!)=篠山紀信さんの動向です。
 「ストックフォトに写真を提供」の次はどういった切り込み方をしてくるのでしょうか?
 できれば有能な編集者か出版プロデューサーと組んで、
 『晴れた日』や『オレレオララ』の頃の輝きを取り戻してほしいものです。
▽清水さんは、ホンマさんを完全にプロデューサー扱いで斬り捨ててますが、
 『きわめてよいふうけい』と『カメラになった男 写真家 中平卓馬』の一件なんかが、
 すでに耳に入っていたのかもしれません。
 http://d.hatena.ne.jp/n-291/20070619#p7
▽しかし、ホンマさんは何かの雑誌で、広告も自分の作品も同じテンションで分け隔てなく撮って、
 作品点数が溜まってきた50代・60代で勝負する(うろ覚え)というふうなことを語っていたので、
 現時点でどう言われようと、あまり興味はないのかもしれません。
 http://d.hatena.ne.jp/n-291/20070902#20070902fn2
▽先日、展示を見たホンマさんの『東京郊外』の写真は、撮影当時の都市部に住む人々の平均的生活感覚よりも
 ほんの少し先を行くような洒脱さとクールさを醸し出すように撮られているように思いました。
 だから、今の時代の眼で見ると、時代に追いつかれてしまっている部分が容易に感じられて、
 古く見えてしまうのかもしれません。
 http://d.hatena.ne.jp/n-291/20080520#p3
▽ここに広告という観点を導入してみると、広告写真とはつねに時代の半歩先〜二三歩先を行くものだから、
 『東京郊外』の写真が、撮影された当時の鑑賞者の感覚とベタな広告写真のあわいをゆく絶妙の距離感、
 つまり、ドクター茂木健一郎的に身近にも感じられるけどちょっと先を行っていて、
 でも少々どんくさい部分もあるというふうな半歩先の距離(http://d.hatena.ne.jp/n-291/20070706#p11
 でもなく、セグメンテーションによる戦略的優位を戦術的にはあえて放棄してみせることが
 逆に「カッコイイ」んですこれが! 今は! というような、装われた身振りによる、さかさまの戦術としての
 三歩以上先を行く突っ走り方でもない、その中間を浮遊するかのような距離を成立させていたのだとしても、
 商業主義におきまりの「What's next?」的慣習行動の同調化圧力(同調圧力)によって時代が移り変わって、
 広告写真のトレンド(笑)と後期資本主義下にある人々の生活感覚がそれにひきずられる形で
 次の段階にスライドしていったときに、清水穣さんの言葉を借りれば、人々の心を吸引する広告的な真空度が
 もはや充分ではなくなってしまうというか。
 っていうか、これって、ごくごく当たり前のことでした。キーボード遊戯。
 いかんいかん。缶ビール効果による無駄に間延びしたおしゃべり。
 タイムロス。ウラシマ効果(逆ウラシマ効果? いずれにしても使い方間違ってます)。もうこんな時間?
 ぜんぜん話が進まず、懸案の川内倫子さんの写真の話になってこないです。(書きかけ)
 http://d.hatena.ne.jp/n-291/20080520#p2
▽欲望の映し鏡を意識する癖がついてしまうと、
 いつまでもそれを覗き込み続けなければならないという
 悪循環に陥ってしまう。。。
▽古いものを完全に排除して、新しいもののみに目を向けていくことが、
 かえって古さを呼び寄せてしまうという逆説。
 しかし、そういうふうにして撮影された写真群を歴史化していくための戦略としては、
 一定以上の成果(場合によっては非常に大きな成果)が
 見込めるスタイルなのかもしれませんが。


>>>清水穣『白と黒で──写真と……』(現代思潮新社)より その1
http://d.hatena.ne.jp/n-291/20080521#p3


>>>「写真の九〇年代──受容の観点から  倉石信乃」より
http://d.hatena.ne.jp/n-291/20080521#p2


鎌田哲哉/「叢書重力」刊行によせて

 松本圭二の『アストロノート』を嚆矢とする「叢書重力」の刊行は、後戻りのできない決定的な一歩である。それは、「重力」編集会議が狭義の編集工房的段階を離脱して、営業販売を含む出版流通システムの全段階で、その活動を自立的に進化=深化させることを意味している。我々は今後、叢書やブックレットを始めとする全ての発行書籍について、既存の流通慣習への依存を可能な限り改める(具体的には、再販委託制のオルタナティヴとしての低正味買切制+自由価格制への全面的な移行を目指してゆく)。また我々は、参加主体が徹底して機会均等的=地方分権的でありながら、出資はもちろん企画や発言の責任をも自らが実名で負う小出版組織の確立を通じて、新聞文芸誌その他の社畜の暴力とインターネットの匿名の暴力を一挙に同時に駆除しようとする。


 既成事実への屈服と自己検閲に抗して、「なかったこと」にされた諸問題を存在させる試み。みかけ上小さな事柄を戦うことがそのまま、社会の不正全体への異議につながる普遍的問題提起の反復。「叢書重力」の下部構造の構築は、これらの批評的実践をより強固に、持続的に可能にするだろう。「重力」編集会議の進路は、公開的な記録と多事争論、とりわけWEB上で頻出する恣意的とんずら=リセットを許容しない活字出版の自由こそ、社会の同質化圧力に対する最も強力な批評原理であることを改めて証明するだろう。だが、「重力」が何をいかに正当に批判しようが、社会は我々に対して多彩な権力の行使を決して停止すべきでない。直接的でわかりやすい弾圧であれ、緩慢で散文的な黙殺であれ、我々に躊躇し遠慮する必要は少しもない。それらは本質的な文学者や科学者を繰り返しテストする永遠の試金石であり、「重力」が何ものかである限り、我々も一切の困難を突破して自らの使命を頑強に遂行するはずだからだ。人間は誰もが自らに必要な事柄を自らに必要な仕方で試みる。だがその時に、口先や割引や詐欺的はったりで何かをしたことにする自己欺瞞を我々は最も望んでいない。――「重力」編集会議は、遍在する自己欺瞞無重力から自らを断ち切る、勇気ある読者との出会いを待望している。

http://www.juryoku.org/kanko1.html


>>>人間性のにじみ出るようなざっくりと優しい風合いのなかにも何処か凛とした厳しさが〔中略〕よってつくり出される則天去私の芸術(2005年9月のメモより)
http://d.hatena.ne.jp/n-291/20060205#p5