Übungsplatz〔練習場〕

福居伸宏 Nobuhiro Fukui https://fknb291.info/

清水穣『白と黒で──写真と……』(現代思潮新社)より その3


現代美術を日本写真に持ち込んで成功したプロデューサーが、日本アニメを現代美術に持ち込んで成功したプロデューサーと妙にパラレルに見えるのは私だけであろうか。だが、被写体を市場むけに合わせて日本写真を現代美術に持ち込んだ初代プロデューサーがアラーキーだとすれば、現代美術界には荒木経惟はいなかった。おそらく、村上隆は現代美術界の遅れてきたアラーキーなのであろう。だから二人の「TAKASHI」は、今現在は確かにバッティングしているように見えても、歴史的背景は異なっている。

「下手ウマ」として全面化した広告写真は全ての写真を吸収できるのであるから、そんな「戦争」は始めから負けが決まっているではないか、という観念的で性急な批判がありうる。存在する広告写真を見て、自分の撮りたい写真がそこに尽きていると思う人は、最初から芸術とは関係なかったのであるから、観念的な批判を受け入れて写真機を下ろせばよい。広告は定義上、不特定多数の「客」とコミュニケートするメディアであるが、写真は徹頭徹尾「個」と「個」のコミュニケーションしか発動しない。問題は、現在ではその「個」が、進化した広告に完全に侵食されていること、言い換えれば顧客化してしまっている事態であり、広告写真の全面的吸収力はここに由来する。それはここ数十年の歴史的プロセスの結果にすぎず、何も不変の宿命ではない。
[P166]注解より

http://www.gendaishicho.co.jp/mokuroku/sirokuro.htm
http://www.amazon.co.jp/dp/432900433X



▽初出は『美術手帖』2002年4月号。「批評の不在、写真の過剰──1990年以降の現代写真とティルマンス」。
▽時間なし。さらに持ち越しか。。。