Übungsplatz〔練習場〕

福居伸宏 Nobuhiro Fukui https://fknb291.info/

再録(http://d.hatena.ne.jp/n-291/20070619#p2)+α

■監視映像論8 - はてなStereo Diary

 議論の流れは、監視の現在による撮影(ストリート・スナップ)の困難さから、ウォーカー・エヴァンズによる地下鉄での「盗撮」プロジェクトへと遡る。そこに見いだされるのは、次のような問題である。少しだけ引用しておく。

 決して暴力的であることを免れない、他者を凝視する視線の権利行使が同時に、自己への倫理的審問を責務として要求するという厳粛な互換の場は、写真の撮影という局面を一類型として想定されうる。このモデルの具体性が失効し、「見つめ、覗き、耳をそばだて、盗み聴くのだ」という「自己への指令」を含まずになされる他者了解は、倫理的深度と陰翳を欠いた、実に白々しい抽象性を帯びざるを得ない。

 都市から撮影者が消え、ストリート・スナップが消え、その代わり、都市には不在の監視カメラによって撮影される者のみが存在するようになり、その画像を誰も確認することもない、そうしたグロテスクな世界。それは、かつての機械の眼とは対照的なありかたである。
 カメラという機械の眼によって撮影者が自らの主体性を解体すると同時に、(非)倫理的な凝視によって事物の裸形の表面性を捉え、そうすることで芸術という超越とも記録という超越とも異なる写真的外部へ逸脱することができた。
 先に紹介したPGPでの論に出てくる諸例を補って読むと、よりいっそう分かりやすくなる論考だと思う。
…現在の白々としたパノラマのなかで点として明滅するだけの風景のなかのどこに梃子を見いだすべきなのだろうか。それがこちらが引き受けて考えなければならない問題となるのだろう。

http://d.hatena.ne.jp/photographology/20070618


(関連1)
http://d.hatena.ne.jp/n-291/20060430#p5
http://d.hatena.ne.jp/n-291/comment?date=20060503#c
http://d.hatena.ne.jp/n-291/20060430#p8


(関連2)
森山大道荒木経惟「森山・新宿・荒木」
http://www.operacity.jp/ag/exh58/index.html
当時、「森山や荒木なら美術館でストリート・スナップの展示が許されるのか?」という声がありました。


森山大道「凶区 EROTICA」
http://www.moriyamadaido.com/top.html#06
http://ohtoretore.exblog.jp/5751445/
*1


石元泰博 「シブヤ、シブヤ」
http://www.pgi.ac/content/view/182/75/
http://www.pgi.ac/content/view/181/76/lang,ja/
http://lenon.cocolog-tcom.com/photo/2007/06/pgi_d04d.html
賛否両論というか、私の周辺では否ばかり。*2




◎ 前川修さんの「はてなStereo Diary」より「監視映像論1〜9」
http://d.hatena.ne.jp/photographology/searchdiary?word=%b4%c6%bb%eb%b1%c7%c1%fc%cf%c0

*1:『凶区』というタイトルは、天沢退二郎吉増剛造鈴木志郎康らが参加していた現代詩の同人誌『凶区』からインスパイヤ

*2:奥村雄樹さんの「Countdown in NYC」
  http://www.misakoandrosen.com/artists/yukiokumura/countdown-in-NYC/#image
  http://www.mori.art.museum/contents/laughter/exhibition/main.html