Übungsplatz〔練習場〕

福居伸宏 Nobuhiro Fukui https://fknb291.info/

『不可視性としての写真』 - another field

ここでのウェリング作品にとっての”歴史性”はベッヒャー、トーマス・ルフにとっての”「ドイツ」あるいは「ヨーロッパ」という虚構性や政治意識”という固有名として、決して同質ではないが、ビュスタモントのひとつの限界から折り返した作品が帯びるものとして見ることも可能であろう。実際、『不可視性としての写真』ではベッヒャー、ルフに関する固有名の言及は行われていないが、<D>線上のアリアにて上記のように言及されている。しかし、この固有名というものをビュスタモントや杉本博司の作品から掬い上げることは不可能なのだろうか。そもそもウェリングやベッヒャーの作品に付けた固有名というもの、それ自体が恣意的なものでしかないのではないだろうか。もちろん、それは恣意的であるだろうし、そうであるからといって糾弾するようなものではないだろう。なぜならば、この恣意性は批評するものにとって(翻訳者にとって)不可避的なものなのだ。


ビュスタモント、ウェリング、"<D>線上のアリア"ではある政治的同一化の問題からベッヒャーシューレと論じてきた清水氏の写真批評は後に変化していくこととなる。おそらくそこにはこのような写真批評では語ることのできない作家、作品が浮上してきたからではないだろうか。ウォルフガング・ティルマンス森山大道はそうした作家の代表例なのかもしれない。とはいえ『不可視性としての写真』の冒頭にて設定された出発点がそうした作家を語る上でも前提になるだろう。また今回触れていない多くの写真に対する重要な示唆も含め、非常に重要な論文であることは間違いないだろう。

http://another-field.blogspot.com/2009/02/blog-post_08.html
良知暁さん(http://www.rachiakira.com/)のブログより。


>>>清水穣『ジェームス・ウェリング 不可視性としての写真』
http://d.hatena.ne.jp/n-291/20090208#p7