Übungsplatz〔練習場〕

福居伸宏 Nobuhiro Fukui https://fknb291.info/

「サイト・グラフィックス」展(2005年)と「写真ゲーム」展(2008年)

◇ 『サイト・グラフィックス — 風景写真の変貌』 (川崎市民ミュージアム) - TFJ's Sidewalk Cafe: Conversation Room

『サイト・グラフィックス ― 風景写真の変貌』
川崎市民ミュージアム, http://home.catv.ne.jp/hh/kcm/
川崎市中原区等々力1-2, tel.044-754-4500
2005/1/20-4/10 (月休;3/21開,3/22休), 9:30-17:00.

  • 片山 博文, 北島 敬三, 向後 兼一, 笹岡 啓子, 鈴木 良, 塚田 守, 津田 直,

土屋 紳一, 原田 晋, 細川 文昌;
コレクション展: Bernt & Hilla Becher, Lewis Baltz, 柴田 敏雄, 畠山 直哉,
伊奈 英次, 田村 彰英, 杉本 博司.

2005/03/06
嶋田 丈裕, http://www.kt.rim.or.jp/~tfj/talk/index.html

http://www.kt.rim.or.jp/~tfj/DoH/05030501


◇ PICK UP VOL.16 BOOK SHOP'S PICK UP ● PHOTOMORE / FUJIFILM

「現代写真の母型2005 サイト・グラフィックス」 川崎市市民ミュージアム

 数年に一度のペースで川崎市市民ミュージアムで開催される「現代写真の母型」展。第3回目に当たる今回は、「サイト・グラフィックス」をテーマに、片山博文、北島敬三、向後兼一、笹岡啓子、鈴木良、塚田守、津田直、土屋紳一、原田晋、細川文昌の10名が出品している。ちょっと聞きなれない「サイト・グラフィックス」という言葉は、写真展を企画した同館学芸員の深川雅文氏の造語。固有の歴史性を失った「中性的で無差別的な場所」である「サイト」(site)と「描く」という意味の「グラフィックス」(graphics)を組み合わせた。たしかにここ数年、デジタル化とともに、どこにでもあるようで「ここだ」と特定することのできない「場所」を、淡々と描写する風景写真が目につくようになってきている。現代写真の一つの方向性を提示するいい企画だと思う。ただ今回の展示では、各作家の「サイト・グラフィックス」の解釈の幅が広すぎて、やや散漫な印象になってしまった。もう少し出品者の人数を減らした方が、ぴりっとしまったクールな展覧会になったかもしれない。

https://www.fujifilm.co.jp/photomore/pickup/pickup_vol16.html


◇ 「サイト・グラフィックス −風景写真の変貌−」展 | 川崎市市民ミュージアム | 展覧会・イベントの検索 | 美術館・博物館・イベント・展覧会 [インターネットミュージアム]

21世紀、現代日本の写真表現に、注目すべき兆候が生まれつつあります。場所の既成の意味やイメージにとらわれることなく独自の風景を制作する写真家たちの登場です。その現象を、写真表現の先端で活動する10人の写真家たちの最新作によってご覧いただきます。
 日本の現代写真の展開のなかで、柴田敏雄畠山直哉など風景の概念をうちやぶる作家たちが登場したのが90年代前後。日本の新たな風景写真として国際的にも注目されました。その後、90年代末に、野口里佳、横澤典など、風景に対する異質なアプローチが登場してきました。さらに、21世紀に入って、デジタル革命が写真メディアにも深く浸透し、新たな感覚の風景作品が登場してきています。ここでは、その特徴を、「サイト」(特別な意味性やイメージを奪われた場)に関する「グラフィックス」(描写)であると仮に想定して、そこに見えてくる写真表現の可能性と広がりを社会的・美術的なコンテクストも含めて検証する場にしたいと思います。

 ところで、「サイト・グラフィックス」という聞きなれない言葉について説明しておきましょう。これは、風景における「場」の新たな側面を指し示そうという造語です。ベルリンの壁崩壊以降の社会状況、そしてデジタルネットワークの進展は、現実において黙示録的な歴史性の概念を解消してしまいました。それによって、歴史性に結びついた「場所」の概念も大きく揺さぶられ、そこに歴史性から脱却した「場所」の概念が生まれてきました。フランスの哲学者、ボードリヤールの言葉をなぞるならば、歴史的な意味をはぎ取られた「中性的で無差別的な」場とさしあたって仮定できるかもしれません。日本の現代の風景表現において静かに、しかし確実に進行しつつある現象は、ここに生まれつつある新たな「場所」の概念と密接に結びついています。こうした新たな場所概念を想い起こさせる写真に対して、手垢のついた「風景写真」(ランド・スケープ)ではなく、中性的な「場」の意味をもつ「サイト」(Site)と「描く」という意味の「グラフィックス」(Graphics)を組み合わせた「サイト・グラフィックス」という言葉を、風景表現の新たな質をより明確にできるのではないかという希望とともに適用してみたいと思います。
写真表現の新たな可能性を、ご高覧ください。

http://www.museum.or.jp/modules/im_event/?controller=event_dtl&input%5Bid%5D=19730


◇ personal note - サイト・グラフィックス展
http://www13.atwiki.jp/kmpnote/pages/171.html


◇ サイトグラフィックス考 深川雅文 - photo-eyes

以下はphoto-eyes内で深川氏が考察してきました一連の「サイトグラフィックス」考をまとめたlogです。


971 「サイトグラフィックス」考 その一 深川雅文 2002/06/25 14:39
「…80年代の私の仕事は、黙示論的な含蓄を持っていた。1990年になると、世界はある意味で終わってしまったように思われた。…」(ルイス・ボルツ) ルイス・ボルツが1992年に自らの個展のテクストに漏らしたこの言葉は、風景写真の革新の旗手として耳目を集めてきたこの作家が、忽然として風景の領域から去り、ハイテクの画像イメージの世界へと身を転じる直前に記されたものだ。この言葉はボルツの作品のその後の急変ともあいまって、写真における「風景」というテーマに関してひとつの「終わり」を印象づけるものだったと言えるかもしれない。(ボルツは、1970年代半ばにアメリカ風景写真の革新、「ニュー・トポグラフィックス」の旗手として頭角を現し「New Industrial Parks near Irvine」に始まり、80年代に入って「San Quentin Point」、「Candlestick Point」などを次々に発表し、この時期の風景写真の革新に中心的な役割を果たした。) 日本でもほぼ同時期80年代から90年代にかけて、柴田敏雄小林のりお宮本隆司畠山直哉伊奈英次などの作家たちが重要な作品を発表していくなど、風景写真の領域で注目すべき動きが見られた。わが国においても「ニュー・トポグラフィックス」という写真の文脈が開かれたのだ。風景写真の革新は、この時期の日本の写真を特徴づける現象として後年の写真史に記されるはずである。1991年、代表的な作家、柴田敏雄木村伊兵衛賞を受賞。これは風景写真の革新運動を締めくくる極めてモニュメンタルな出来事であった。 ただし90年代に入ると、風景写真は80年代とは若干異なる様相を示し始める。たとえば、小林のりおが、デジタルのネットワークの中に表現の場を置き、それまで撮っていた「風景」からいわば脱走したのはその極端な例かもしれない。畠山は、「ブラスティング」(爆発)シリーズでそれまでの石灰産業の風景写真とは異なる次元を切り開く。より若い世代の松江泰治は、80年代の「ニュー・トポグラフィックス」という概念に囚われない、新たな「地」の捉え方を実践し始める。いずれにしても、正確な日付は特定できないが、日本の「風景写真」においてもボルツのふるまいが積極的に首肯できるようなを状況が広がっていったと思われる。90年代半ばに始まるインターネット・コミュニティの拡大やデジタル・テクノロジーの発展もそうした状況を促進していった。「風景写真」は、ガーリー・フォトグラフィーなどの熱狂のなかで、陰をひそめたように見えた。 90年代初頭に見られたルイス・ボルツの豹変は「風景写真は死んだ」ということの暗示であるようにも見えた。しかし、その後の写真の動きを眺めてみると、風景写真は死ぬこともなく(あたりまえだが)、実際には、たとえばホンマタカシや松江泰治、市川美幸あるいは清野賀子の仕事のように、「風景」(この言葉を暫定的に使うとしたら)をテーマにした新たな作品が生まれつつあった。ただし、そうした新たな(風景)作品を「風景写真」という手垢のついた言葉で一括りするには何か気が引ける部分があった(同様に「ニュー・トポグラフィックス」という言葉で括るにも気が引ける)。この「気が引ける」部分が、その後、同じように「風景」(まだ暫定的に使うとしたら)をテーマにした作品を前にしたときに、さらに加速度的に拡大していったような側面がなかっただろうか。とりあえず、そこに新たな「場」を巡るビジュアル・アーツの変容が生まれつつあったのではないかと先取り的に言っておこう。(しかし、「風景」という言葉のなんと曖昧、多義的なことか)。 つづく


973 「サイトグラフィックス」考 その2 深川雅文 2002/06/26 23:40

 「サイトグラフィックス」とは何か。おそらく、ほとんどの人にとって聞いたことも見たこともない言葉なのではないだろうか。それも然り。つい先日、僕が思いついた言葉であるのだから。最近いくつかの「風景」に関わると思われる展覧会を回っていろいろと考えを巡らせていくうちに、ふと思いついた言葉である。    「その1」(#971)の末尾の部分で、写真における「場」の概念が変わってきているのではないか、と書いた。「サイトグラフィックス」は、この変容の側面をひょっとしたらすくい取ることができるかもしれないと、いわば仮置きしてみた言葉である。その意味をより明確にするために、少しばかり「風景」に関する写真の歴史を辿ってみたい。    「サイトグラフィックス」という言葉は、おそらく「ニュー・トポグラフィックス」という言葉を連想させるだろう。そこで、「ニュー・トポグラフィックス」を振り返ってみよう。    1975年、ニューヨーク州炉チェスたーにあるジョージ・イーストマンハウス国際写真美術館で「ニュー・トポグラフィックス」展という耳慣れない響きをもつ写真展が開催された。この展覧会では8人と一組の作家が紹介された。    これは、風景写真をテーマに、その新たな動向を指し示そうとした展覧会だった。「風景」という言葉ではなく「ニュー・トポグラフィックス」という言葉が冠されたのにはそれなりのわけがあった。というのは、ここで紹介された写真家たちの作風がいずれも既存の伝統的な風景写真のジャンルに収まりきれないものであったからである。一見、なんのドラマもなさそうな陳腐でありふれた場所、感情を押し殺したような冷徹なまなざし、旧来の風景写真の美学を無視したような奇妙な構図…こうした傾向は、19世紀後半のアメリカ西部開拓写真に始まる、今世紀、エドワード・ウエストンやアンセル・アダムスらによって確立されたモダニズムの風景写真の美学に対立するものであった。こうした「風景」写真の新たな傾向の内実を言い表す言葉として、手垢のついた「風景」という言葉ではなく、「ニュー・トポグラフィックス」という新たな言葉が選ばれたのである。   つづく


979 サイトグラフィックス考 その3 深川雅文 2002/06/29 01:08

サイトグラフィックス考 その3 深川雅文 「ニュー・トポグラフィックス」という言葉のなかの「トポグラフィックス」は、「場」を意味する「トポス」と「画法」などを意味する「グラフィックス」から成り立っている。「ランドスケープ」における「ランド」は、「場」を示す言葉のなかでも、国、風土、所有地などなんらかの社会的観念や共通の価値観に結びついている。それに対して、「トポス」という語は、地勢図(トポグラフィー)という言葉に見られるように測量学的な概念であり、より中性的な「場」の概念である。この言葉は、自然美や情感など「風景」という言葉にまつわりついたさまざまな伝統的概念を回避するのに好都合であった。そして「グラフィックス」とは、表現の方法論への意識を含む言葉であった。つまり、ニュー・トポグラフィックスとは、「ランド」としての風景概念をいったん括弧に入れ、あらためて「場」と写真表現の関係そのものを問いかけようという新たな表現への意志の顕れを指し示す言葉だったと解釈することができるだろう。 さて、この展覧会に参加した作家たちの名前を挙げておこう。ルイス・ボルツ、ロバート・アダムス、ジョー・ディール、フランク・ゴールケ、スティーブン・ショア、ニクラス・ニクソン、ヘンリー・ウエッセル、ジョン・ショット、そしてベルント&ヒラ・ベッヒャーである。彼らの作風は、往々にして風景に対する「冷徹なまなざし」と評されたのも首肯できるだろう。   たとえば、伝統的なモダニズムの風景写真では、レンズが向けられる場所は、写真家の精神あるいは感情移入の対象となり、撮影者/観照者は、カメラをとおしてその場と一体感を有し、美の表象をかたちにすることが重要とされてきた。この場合、眼前の場の視覚的外観を美や崇高といった“普遍的な”表象へと還元させることが撮影の大きな眼目となっていた(アンセル・アダムスの作品を想像してみよう)。 それに対し、ニュー・トポグラフィックス展の作家達の作品には、概ね、そうした合一化と還元のプロセスを拒否しているかのような、冷めたまなざしが支配的であった。後者の風景表現は、作者と対象の単純な二項関係、二元論的なモデルのうえに成り立つのではない。そこでは、視覚的な外観としての「場」は、「美」や「崇高」といった普遍的な美学概念に短絡する跳躍台としてではなく、見る者の想像力を意識や精神と呼ばれる我々の思念のもつ多面的で幅広い領域へと解放ないしは変奏させる媒体ないしは触媒として機能するのである。言い換えれば、ここでは「場」はなにか普遍的なもののシンボルとして作用するのではなく、なにか目に見えないあるものを再現された視覚像を通して告げ知らせる徴候(シンプトム)としての役割を果たしていると言えよう。 「私の写真にとって重要なのは、見えないものを見えるようにすることだ」(ルイス・ボルツ)    つづく  


983 サイトグラフィックス考 その4 深川雅文 2002/07/01 22:48

サイトグラフィックス考 その4  深川雅文 歴史的文脈から現在に向けて、考察のスピードを少し上げたい。つまり、「ニュー・トポグラフィックス」から「サイトグラフィックス」へと。   そのためにも再び、少しだけボルツの仕事を引き合いにだそうと思う。   最初の写真集『ニュー・インダストリアル・パークス』は、カリフォルニア州アーバイン近郊の新興工業団地の記録だった。現代的な工場やオフィスの外観が凍るようなまなざしで即物的にとらえられている。緊張感の漂う構図、冷徹非情なまでの感情の抑制-その徹底ぶりは、旧来の風景写真に見られた美的表出を意図的に押さえ込もうとする作家の意志を際だたせている。逆に、ドナルド・ジャッドやリチャード・セラなどのミニマル・アートの美学との類縁性も取りざたされた。   都市開発の触手の最先端部に現れてきた不可思議な光景に彼は、まなざしを注ぎ続けた。その冷徹さゆえに、都市文明の論理そのものに大きな疑問符を投げかけるような響きを持っていた。その後、「ネバダ」(1977)、「パーク・シティ」(1980)、「サン・クエンティン・ポイント」(1986)、そして「キャンドル・スティック・ポイント」(1988)と大きな展開を見せる。そして1989年、ベルリンの壁が崩壊し世界が変動のただなかへとなだれこもうとしていたのと時期を同じくして、ボルツは「トポス」としての風景の場を後にし、新たな領域(ハイテクのフィールド、そして「物語と映像」)へと身を転じることになるのだ。   評論家ガス・ブレイデルは、『サン・クエンティン・ポイント』に寄せたテクストで、ボルツの光景を「不動産としての風景」と形容した。これは言い得て妙な表現である。「不動産」としての場は、いかなる過去の伝統的な場の価値観も寄せ付けない強さを持っているからだ。それは地勢にしたがってさまざまな利用が可能な場所だ。その利用の様態がニュー・トポグラフィックスの重要なテーマのひとつとなった。日本では、小林のりおが「LANDSCAPES」で描いた新興住宅地の光景、柴田敏雄が「日本典型」などで提示した日本の山奥に出現しつつあった砂防ダムのコンストラクション等々。「LAND」という絶対的な価値を有していると思われた場から、「TOPOS」としての転用可能な(いわば、不動産としての)場への移行が、いわゆるニュー・トポグラフィックスが描いた変容する視線の軌跡であったと言えるかもしれない。   ところで、2002年という現時点から見ると、80年代を通して前進したこの重要な動きはすでに歴史的な文脈にあることは否定できない。ニュー・トポグラフィックスという概念に含まれていた「場」の概念を支えていたより重要な概念の足場がいわば崩壊してしまったかのように見えるのだ(おそらく、それがボルツの豹変の理由のひとつでもあったのだ)。   ボルツの初期から80年代にかけての仕事は、伝統的な風景概念を乗り越えるものではあったが、巨視的に見ると、その社会的文脈は、現代の都市文明の様態への視覚的コミットメントあるいは批判であった。つまり、西欧文明の歴史的発展の果てに見えてきた光景の指摘だった。『サン・クエンティン・ポイント』や『キャンドル・スティック・ポイント』が「黙示録的」と形容されたゆえんである。とすれば、時代への鋭い批判をはらみつつも、作品の根底には西欧近代が育み、推進してきた前進する歴史的時間の概念が横たわっていたのである。 ニュー・トポグラフィックスは、歴史を批判しつつも、反・歴史的ではなかったのである。それが向かった場は、目に馴染む伝統的な美的光景の発祥の地ではなかったが、歴史的発展の先端に触れ合うという形で「歴史」の範疇に入る場であったのかもしれない。  もう一度、ボルツの言葉を引こう。   「…80年代の私の仕事は、黙示録的な含蓄をもっていた。1990年になると、世界はある意味で終わってしまったように思われた。…」 ここにいう世界の終わりとは何を意味するのか。そして、その後にどういう世界が来ると想像されたのだろうか。次の言葉は、こうした問いに示唆を与えるかもしれない。    「…もはや、黙示録は存在しない。黙示録は終わったのだ。今あるのはどっちつかずのものの優勢であり、中性的で無差別的な形式の優勢である。…(中略)…残ったものはと言うとも索漠とし、無差別的な形式や、我々を手なづけようとするシステム事態の操作に預かる誘惑である。その魅惑とは、このうえなくニヒルな情熱であり、消滅した世界に特有の情熱である。…」   あたかもボルツの口から出たと言っても不思議ではないようなこの言葉は、ボードリヤールの1981年の『シミュラークルとシミュレーション』からの一節である。 ここに、ニュー・トポグラフィックスの後(ポスト)に来るべき“風景”写真の出発点が示されているのではないだろうか。つまり、“風景”における「黙示録」的時間と場所からの脱走と決別が。伝統的なランドスケープからニュー・トポグラフィックスまでの風景写真の流れは、その「歴史性」という点でいったん精算され、新たな風景概念が現れざるをえないだろう。その言葉は、いまだ鮮明には現れていないが、僕はそれを「サイトグラフィックス」という名で仮に指し示してみたいと思う。詳しい叙述は次回に譲るとして、たとえば次のような使い方をしてその予告にしてみたい。アンドレアス・グルスキーの作品は、“サイトグラフィックス”的である。北島敬三の先日の展覧会「scapes」は“サイトグラフィックス”的である。あるいは片山博文がart&river bank で先日行った“Vectorscapes”は「サイトグラフィックス」的であると。… つづく


998 サイトグラフィックス考 その5 深川雅文 2002/07/06 16:55

サイトグラフィックス考 その5 深川雅文ランドスケープ」における“land”、「ニュー・トポグラフィックス」における“topos”、そして「サイトグラフィックス」における“site”、それぞれの語彙的な意味とその差異を概観してみると、“サイトグラフィックス”の概念の特質が浮かび上がってくるかもしれない。  これらの言葉にはそれぞれにいくつかの意味があり、また、意味的に重なる語法があるのも事実だが、その差異を示す意味の部分に注目して分析してみよう。  たとえば、“land”にある意味のひとつ、「国」を“site”で指し示すことは難しいように思われる。逆に、「なんらかの出来事のあった場所」という意味での“site”を、“land”で指し示すことも難しいだろう。“land”には、国家的な価値のある場、伝統的な価値の場、そして所有価値のある場という色合いがある。“site”には、類縁する語に“situation”(状況)があるように、場の「絶対的な側面」(“land”の持つ側面)よりも、周囲との関連やなんらかの関心で区切られる「相対的な場」という側面がある。“construction site ”は、建築作業という利用目的あるいは関心によって区切られた「場」であり絶対的な場ではない。ホームページの“site”も、インターネットの情報空間の中に仮想的に置かれる情報発信の「場」であり、最初から「絶対的」ではなく「相対的」である。「場」のある種の絶対性の意味を付与するためにはlandという言葉は効果的だ。「ディズニー・ランド」は、「ディズニー・サイト」では困るだろう。“topos”は、地勢や地誌に関わるという意味では計測に関わる地形学的な概念であり、その意味では他の二つに比べると中立的である。「位相幾何学」を“topology”というが、ここでも、均質な理論的空間における「場」としての意味が強く、その意味で中性的な場の概念が“topos”を特徴づけると考えることもできよう。    「サイトグラフィックス」に戻ろう。歴史的時間に規定された場のビジョンとての「ランドスケープ」に対して、いわば究極の「消毒」処理として「ニュー・トポグラフィックス」が写真史の展開のなかで立ち上がった。さらに、ニュー・トポグラフィックスが、ボルツや小林のりおの動きに明確に見られるように、自らの歴史的な制約に自覚したときに、「中性的」な場としてのトポスにも別れを告げざるをえなかった。「サイトグラフィックス」は、その後に来る“風景”と仮に規定たのだが、それは、言い換えれば、「脱・歴史」(ポスト・ヒストリー)状況において立ち現れてきた特徴的な“風景”と敷衍することができるかもしれない。さらに別の言い方をすれば、ニュー・トポグラフィックスが重大な関心をもった場の「中性性」をも軽やかにパッシングして、場の「無差別性」に向かいつつ自らの関心によって‘任意に’選び取られた“風景”としてのビジョンである。そこで現れてくる場は、次のような質的変容を通過したということができるかもしれない。「絶対的な場→中性的な場→相対的な場」 朝日新聞の文化欄で学芸部の記者の大西若人氏が、現在開催中の「写真の現在2 サイト」展を論じたなかで、撮られている場所にとってそれがどこなのかという名前の意味が希薄になっているという指摘をしていたが(例えば、野口里佳のオランダで撮影された作品)、この論点(場の無名性)は、今、記述したような場の質的変容と密接に関わっているのである。    次回は、具体的に僕が「サイトグラフィックス」的だと考える作家と作品を見てみたいと思う。   つづく


1010 サイトグラフィックス考 その6  深川雅文 2002/07/10 22:26

サイトグラフィックス考 その6 深川雅文

「サイトグラフィックス」という写真表現の文脈を考えるうえでどうしても避けて通れない作家がいる。アンドレアス・グルスキー(独 1955年生まれ)である。ベッヒャー門下生。現在、写真作家として最も注目されているひとりである(一点数千万円という、写真の作品価格としては目のとびでるようなその市場価格も注目されている)。昨年(3/4〜5/5)、ニューヨークMOMAで大個展が開催されその国際的名声をうち立てた感がある。 グルスキーは、大型カメラで現代的な風景を精緻に撮影した巨大なカラープリントの作品群により、90年代に入り頭角を現してきた。ベッヒャーの伝統に重なりながらも、プリント制作に絶妙なデジタル処理を積極的に導入することにより、大胆な跳躍を見せ、現代の写真表現に波紋を投げかけてきた。たとえば、1996年に発表された「ライン川」という作品がある。ライン川の水面を此岸の土手と彼岸の土手で挟むような構図で捉えた作品である。人々を驚かせたのは次のことだ。水面と両土手の稜線が、完璧に直線で、画面上を水平に走っているのである。緩やかなカーブを見せる日常的なライン風景とは異質の光景がそこにはある。この「直線性」を明確にするために、グルスキーは、歩いている人々や土手の向こうにある建物の姿、あるいは水面の船などをすべてデジタル処理により巧妙に取り去った。この作品においては、眼前の現実の場の再現や表出ではなく、それを元にしながらも、自らが現実へと投げかけるビジョンの視覚的表出ということがより重要となっている。場の絶対性は、作家のビジョンの任意性の支配下に解消されているのをこの作品に確認することができるだろう。その意味で、これは「ランドスケープ」でも「トポグラフィックス」的でもなく、「サイトグラフィックス」的なのである。
 では、その場の固有性をいわば脱力させる作家のビジョンとはどのようなものなのか。たとえば、大規模な高層住宅を真正面から捉え、コルビジュエの「住むための機械」という住宅理念に視覚的にコミットするような作品『モンパルナス』、あるいは、矩形の凹みに靴が整然と並べられたプラダのショーケースをミニマリズムの作品のように撮影した『プラダ 2』では、矩形性と直線性が、視覚的な要素として異様なまでに重視されているのに気づくだろう。ここに、直線や矩形から構成されている空間としての現代への視覚的コミットメントという戦略が見えてくる。しかも、そうした空間を称揚するというよりもクールに見届けるといった風であり、モダニズムへのある種の距離感を生み出しており、そこにリアルな意味での同時代性を強く感じさせるのである。「ライン川」のデジタル処理による水平化もこのような意志に導かれていると考えられる。面白いのは、デジタル処理により「創作」された部分があるにもかかわらず、作家が可視化しようとする社会的現実がそこには「再構成」されている点である。ここが、グルスキーの作品を「広告写真」と決定的に分かつ点であろう。ベンヤミンは『複製技術時代の芸術作品』で、広告写真を「創作的」だとし、現実を暴露するアジェやザンダーの作品を「構成的」と形容し、後者の重要性を説いたが、グルスキーの作品ではこの二つの性格がいわば弁証法的に止揚されている。その意味でも、「ポストモダン」の形容がふさわしい作家である。
  こうしたグルスキーの画像操作について、師匠のベルント・ベッヒャーは、やりすぎだという批判的な見方を示している。ところが、1950年代末より産業社会の遺跡に属する給水塔や石炭採掘塔などを概念的な「真正面」から撮影し続け、比較可能な形に整えて提示したベッヒャーのタイポロジーという手法自身が、被写体をいわば記号化・概念化し、客体としての被写体を相対化する作業であったことを振り返ると、グルスキーの仕事はベッヒャーの仕事の展開形と見ることもできるのである。決定的に異なるのは写した対象あるいは場の持つ歴史性への評価の仕方である。ベッヒャー夫妻が「比較」のために撮り続けた給水塔や採掘塔は、それらが生まれた時代と土地の特性(たとえば産業時代や産業地区)に不可分に結びついた存在として同定されていた。可能な限り「中性的」な存在の場へと移し替えることで、同一種の(給水塔)多様な外観を比較可能なテクストを編み出すことが、ベッヒャーの方法論の本質的な部分にあったのだ。そしてその点(中性性)において、ベッヒャー夫妻が「ニュー・トポグラフィックス」展に選ばれたのは理にかなっていたといえよう。 ベッヒャー派の新世代においては被写体との歴史的紐帯は変更可能な(任意な)関係へと変換されている。この点において、ベッヒャーの息子のひとりでもあるグルスキーは、明らかな「親殺し」の罪に問われても不思議はないだろう。デュッセルドルフでのベッヒャークラスの最晩年期に学んだハイナー・シリングの作品にもデジタル処理が用いられている。彼は、1997年に来日し、日本の都市風景をテーマに、斬新な作品を発表して注目された。たとえば、彼の作品のひとつでは、横浜みなとみらい地区の上空にヘリコプターが舞いながら、ランドマークタワーなどの建築群に迫っているような光景が現れる。実は、建築群を撮影した写真にはヘリコプターは存在しなかったが、その場所で時折空を舞うヘリコプターを見ていたシリングは、その作品で、その場の自らの空間体験の可視化として、ヘリコプターを絶妙な位置に配置した。彼にとっては自然な行為であった。たんなる画像効果のためだけのデジタル処理ではない、作家が見る現実の可視化としての写真表現の新たな地平がここには示されている。「場」という観点から見れば、そこの光景は任意な変更が可能な「場」となり、言い換えれば「相対的な場」なのである。「サイトグラフィックス」とはかかる「場」の質に関わる写真表現なのではないだろうか、と僕は考えるのである。 次回は、日本における「サイトグラフィックス」の現れについて見てみたい。
つづく


1018 サイトグラフィックス考 その7 深川雅文 2002/07/16 23:08

サイトグラフィックス考 その7 深川雅文

2002年前半に日本で催された写真展の中で、「サイトグラフィックス」的現象を見てみたい。 北島敬三写真展 PLACES(5/27-6/9/2002 photographers' gallery)。この展覧会で北島は、都市の一角を捉えた光景を大きいサイズのプリントで7点ほど展示した。カラー作品とモノクロ作品がほぼ半々くらいに混在した展示であった。僕が注目したのは、カラーとモノクロの双方の空の部分のトーンがほぼ同じ色調を持っていた点である。この空において、モノクロの作品もカラーの作品もいずれも水準化され、統合されていた。それによって、それぞれに異なる都市の外観の差異を超えて統一する「空」の位相に眼を移行させざるをえない強さが生じてきていた。そこでは、「図」としての前景は限りなく後退し、「地」としての空(背景)が逆に前へと張り出してくる。光景におけるこの価値の転換は、おそらく、写されているこれら各々の場所を「無差別的」な場へと変えてしまう。がゆえに、北島は個々の作品にその場の「名」を与えることを決然として拒否している。「空」あるいは「宇宙」という視点から見たら、全ての場所が「無差別的」なのではないだろうか(同様に、北島の「PORTRAITS」の背景の「白」の意味をあらためて問うことも有効であろう)。 北島のSCAPESは、中心遠近法を厳格に適用して世界の都市を捉えようとしたトーマス・シュトルートの都市風景を思い浮かばせるかもしれない。しかし、その内実は、シュトルートの仕事とは鋭く対立している。というのは、シュトルートは、その手法の首尾一貫性にも関わらず、個々の場の空間と歴史の個別的特性を否応なしに開示することになったからである。そこでは、場所の「名」や「国」の名とその歴史性が重い意味を持っているからである。こうした風景の極北にあること…それゆえに北島のSCAPES には「サイトグラフィックス」的なものが徴候として示されているのだ。  ところで、北島は、この手のいわゆる“都市風景”の作品を日本国内ではあえて発表してこなかった。それは、自らの作品が了解可能になる精神的土壌の変化あるいは熟成を待ったがゆえなのかもしれない。
 5月にTARO NASU GALLERYで展覧会を行なった松江泰治は、都市をテーマにした最新作において、彼の代表作となった世界各地の地表面のシリーズにおいて内在していたサイト・グラフィック的な側面をより明確に出すことになった。松江独自の高みの視点から捉えられた都市の光景は、たしかに、それぞれがその場の固有性を断片的に示してはいる(たとえば、マレーシア・クアラルンプールの高層ビル群のもつ固有な構造)。しかし、それらの作品を熟覧していくと、個々の場の都市光景とそれぞれの名前は、松江が編み出した任意のしかし彼にとって絶対的な高次の視覚化システムへと回収され、ビジュアルの契機としての役割へといわば蒸発していく。場所の名はその場を「分ける」機能を果たしながらも、作品は一次的な「分け」の場を超越して新たな視覚的な「分け」の次元を拓いていくのだ。その意味で、「有名性」は、かぎりなく「無名性」へと転化していくのである。(この展覧会へのコメントについては、photo-eyesの過去の深川の書き込みを参照していただきたい。)
 東京国立近代美術館で開催中の「サイト—場所と光景」展(—8/4まで)に参加している横澤 典(つかさ)の出品作品は、写真における「場」の今日的な徴候を示している点でも重要だろう。「spilt milk」と題された縦長の大きめの作品である。そこには、広がる暗闇の中に、天空の星座その作品のように街の灯りが点在している。それは、トーマス・ルフの星座の巨大な写真へと連想を走らせるかもしれない。ルフの星座の写真は、現実の特定の場の星座の写真を用いた光景であるのに対し、横澤の作品で我々が見るのは、作家がある現実的光景から、作家自身が仕掛けた視覚的システムによって掬い取った仮想的な光景であり、その撮影の場自体は暗闇のブラックホールの中に回収されてしまっている。言い換えれば、カメラの前にあるという意味での「場」は、より高次の視点によって融解され、別のしかたで(例えば「spilt milk」)名状されるしかない場へと転化しているのである。
 会場では、数点の「spilt milk」と一緒に、雪に覆われた都市を俯瞰した作品「on white」が一点だけ展示されている。「spilt milk」の暗闇の世界が、にわかに白日化されたような印象を与えてハッとさせる。「on white」では、雪の白と建物の白が溶け合って、その光景の地を形作り、図としての建物は認識可能ではあるがその存在力を去勢化されて背景へと引き込まれてしまう。横澤の関心は、カメラの前の場を存在論的に別の視覚的な場へと「転ずる」ことにあるのではないか。とすれば、その意味で、横澤の光景は「転景」と呼ぶことができるのかもしれない。
 5月半ばから6月半ばにかけて、art & river bank で開催された二つの若き写真作家たちの展覧会は、サイトグラフィックスという写真の意識の場の立ち上がりをより明確なかたちで突きつけるものであった。原田晋写真展「Window Scape」(5/18-5/31)と片山博文展「Vectorscape」(6/8-6/21)である。
 原田の作品は、一見、カラフルであるがピントが曖昧なスナップショットのように見える。個々のイメージをさらに見ていくと、よく知られた世界の名所の建造物など(たとえばピラミッドなど)が認められたりするが、展示場の別の一角には、やをら宇宙開発の場面や天体のイメージが現れたりもする。それぞれの作品は断片的で場所から場所への飛び方にもほとんど一貫性は認められない(あたかもインターネットにおけるサイト間の気ままな旅のごとく)。それもそのはず、原田は、旅行者として撮っているのではなく、自室のテレビのモニターを追っているだけなのだという。それらのイメージはあえて命名しようとすればそうすることができる場所に関わっている。しかし、その場所の名を作品の傍らに付記したとしても、映像はその場について何も付け加えない。流出するモニター画像を、かすかにリアルの痕跡を感じさせる程度にサンプリングし連ねることで見えてくるのは、我々と世界の間に入りこんだメディアによって変換を施された世界の現前であるとともににその変換というメディア的事態そのものである。その事態そのものは日常において「不可視」なのだ。メディアは「場」を膨大な量で流出させ、浮遊させる。「場」はいわばとめどなきデフレに陥り、その元々の価値と意義を稀薄化していく。もはや、その場の名は、使い古されかすれ読めなくなったその名の痕跡を残すだけであるかのように。
 片山博文展「Vectorscape」は、一瞥したところレンズの冷徹な分析力をフルに引き出して撮影した緻密な建造物写真のように見えるが、文字通りゴミひとつないノイズレスな画像は、写真的なリアリティを極度に純化したものであるだけに逆にかすかな異和感を見るまなざしに生じさせる。片山は、大型カメラで撮影した作品を元にコンピュータでそのイメージを丹念にシミュレートした。たんに部分的にデジタル修正を行うのではなく、元の画像全体をヴェクトルデータで再構成した画像なのである。彼が撮影に選んだ「場」は、ヴェクトルデータ化される素材としての場であり、存在論的にはデータ化することによって到達されるイメージの下位に位置づけられるにすぎない。片山が撮影するのは格段ドラマチックな場ではなく、都市の一角のどこにでもあるような場所である。そんなどこにでもあるような場が、どこにでもない場へと転化させられる。「場」をある視覚のメタ・システムによって「転化」すること - 「転化」という点において片山の仕事は(横澤 典の作品とは異なる方法ではあるが)サイトグラフィックス的徴候を明示していると言えよう。
 photographers' gallery での笹岡啓子写真展「限界」(6/10-6/23)は、同名のシリーズの新たな側面を見せてくれた。これまで同タイトルで見せてきたのは、海際の地勢とそこに点在する人間像を巡る作品であったが、今回は、雪山の地勢とそこに点在する人間像が捉えられていたからである。海と山、いずれの場においても余暇を楽しむ人間が点在している。海と山のいずれにおいても、作家固有の自然と人間の関係把握が貫かれていることによって、場の固有性を越えた人間と自然のの関係を巡る、メタレベルの視覚のシステムが際だってきている。したがって「そこがどこであるか?」(海はたとえば千葉であるかもしれないし、山は長野であるかもしれない)という問いかけは、たしかになんらかの重要な意味を持ちうるが、ただちにそれに対して「So what?」と応じてもよいだけの二次的な意味に逆転する可能性を持っているのだ。「限界」とは、たしかに「場」そのものではなく、「場」の質的転化の末に浮かび上がってくる高次の概念である。
 以上、いくつかの展覧会を通して、サイトグラフィックス的徴候の現れについて論じてみた。次回(最終回)は、「サイトグラフィックス」という概念の意味についてあらためて考えてみたい。
 つづく  


1033 サイトグラフィックス考 その8(最終回) 深川雅文 2002/07/23 12:40

サイトグラフィックス考 その8(最終回) 深川雅文

ここでは、「サイトグラフィックス」という言葉を、現在、「風景」という名の下にまとめられかもしれない写真の表現の現場に現れてきているある徴候を示す言葉として仮に置いてみて、その歴史的背景にも遡りながら現代の作品も含めて7回にわたって書いてきた。 サイトグラフィックス的に描かれた場所を特徴づける言葉をあらためていくつか挙げてみよう。たとえば、場の任意性、場の無名性、場の相対化…言い換えれば、「所在のなさ」、にもかかわらず、それは「どこかの場」を示している。こうした場所の観念は、「どこでもない場所」という意味での「ユートピア」の意味にも連なっている。ただし、それはこの言葉で一般的に連想されがちな「夢想」や「幻想」の場ではない。「写真」として、そこに「現」の位相を織り込んだ上での「ユートピア」なのである。 サイトグラフィックス的な場をこのように把握するとしたら、この言葉の彼方に、我々はベンヤミンが思索を通して格闘した根本的な問題のありかを見ることができるかもしれない。ベンヤミンは、自ら命を絶つことになった1940年の春に書かれた絶筆「歴史の概念について」の中のテーゼ?でこう書いている。 「歴史のなかで人類が進歩するという観念は、均質で空虚な時間をとおって歴史が進行するという観念と切り離されないものである。こういう進行の観念にたいする批判が、一般に進歩という観念に対する批判の土台を形成しなければならない。」(テーゼ?) 『複製技術時代における芸術作品』や『写真小史』でベンヤミンが取り上げた「今、ここで」というアウラの観念を巡る考察は、こうした批判の土台のひとつであった。「アウラ」の現在性、言い換えれば、「今」によって充足された時間の観念は、歴史的進行という近代の時間の観念に対するカウンター概念として置かれていたのである。彼は、人間を歴史的理念の進行の中で解放するというプログラム(この点では通俗的なマルクシズムも同様なイデオロギーのひとつである)を根底から批判した。彼にとって、「現在」こそが「特定の過去の一時代と出会う局面」(テーゼA)であり、(「現在」に見いだされる)「持続的なカタストローフのなかにある小さな裂け目」(遺稿)を衝いて、そこから逆に歴史的時間を再構成することによって、現在は解放され、救済される。そこに、いまだ到来していない理想の世界(ユートピア)が切り拓かれる。つまり、ユートピアは現実化(アクチュアリジールング)を経ることなしには到来しない。(ザンダーとアジェの写真を彼が評価したのは、彼らの仕事が「現実化」を通して、歴史的・社会的な空間と時間を見事に再構成化していたからにほかならなかった。) ベンヤミンが描いたユートピアの現実化は、同時代に進行していった社会主義革命の事態に重なる部分がある。しかし、実際の社会主義国家は、1990年のソビエト連邦崩壊に見られるように歴史的に清算されてしまった。だからといって、ベンヤミンの哲学は、意味を失うわけではない。むしろ、近代の歴史的時間の観念が崩壊し、歴史や国家の理念が解消しつつあるように思われる現代であればこそ、我々がどこに身を投げかけるのか、どのような場に我々は行こうとしているのかという問いは重要性を増しているのではないだろうか。というのは、ベンヤミンの思索は、そうした問いかけの中で、なんらかの歴史的理念や価値を前提とするのではなく、「いま、ここ」を手掛かりにして「ユートピア」(ここにない場)を模索する行為の原点を示していると思われるからである。 この点において、サイトグラフィックスは、ベンヤミンの思索の核心に触れているのではないかと、僕は思うのだ。 最後に、「サイトグラフィックス」という概念は、現在、風景を巡って(あるいは「写真」を巡って)行われている表現の同時代性を考える場合に、その意味に近づく上で機能することができるかもしれないという小さな期待を持っている。いわば、ひとつの「梯子」になりうるかもしれない。とはいえ、昇ってみたところ「梯子」として機能しないということが判明したら、容赦なく捨て去っていただければいい。それによって事態がうまく「切れない」概念は、余計なものなのだから。 了

https://web.archive.org/web/20090207140751/http://park14.wakwak.com/~pg-web/log_sg.html

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◇ シリーズ写真展:現代写真の母型2008 「写真ゲーム」 -11人の新たな写真表現の可能性 2008年1月26日-3月30日 gaden Exhibition report

シリーズ写真展:現代写真の母型2008 「写真ゲーム」 -11人の新たな写真表現の可能性
2008年1月26日-3月30日


出品作家
八田政玄、屋代敏博、前沢知子、高橋万里子、城田圭介、土屋紳一
三田村光土里、今義典、北野謙、石川直樹、折元立身(敬称略)

http://www.gaden.jp/info/2008/080326/0326.htm


◇ シリーズ写真展:現代写真の母型2008 写真ゲーム −11人の新たな写真表現の可能性− | 川崎市市民ミュージアム | 展覧会・イベントの検索 | 美術館・博物館・イベント・展覧会 [インターネットミュージアム]

 「写真ゲーム」とは?
 21世紀に入り、わたしたちの社会・生活・文化にはさまざまな変化が生まれています。写真も例外ではありません。写真表現の最前線では、単に物事を写して伝える、その美的なイメージを表現するという写真の伝統的な機能を超えた表現の可能性を探ろうとする興味深い現象が進行中です。
 本展では、その現象に「写真ゲーム」という視点から光をあてます。
 「写真ゲーム」とは聞き慣れない言葉かもしれませんが、今日の写真表現の新たな側面をより明確に示してくれるのではないかという希望を込めて用いてみたいと思います。というのは、写真におけるゲーム的要素が現代写真の先端に多様な形で現れているからです。
 写真の意味や価値を被写体や美的イメージにのみ求めるのではなく、どのようにしてそのイメージを作り出すのか、あるいは、作り出されたイメージをいかに用いるのか、言い換えれば、撮影のルール、展示のルールの面白さと独自性が写真にとってより本質的な要素となって、豊かな写真表現が生まれています。作家にとって、写真を用いてどのようなルールでプレイするのかということが重要性を増しているのです。つまり、作家が産み出すルールにしたっがた一種のゲームという色合いが強く出てきています。本展では、現代写真のゲーム的側面に注目して、11人の作家の写真作品を紹介します。21世紀に入って国内外で活躍し、注目される写真の仕事を発表している芸術家たちです。
 それぞれの作家にはそれぞれの写真の作法やルールがあり、それにしたがったプレイが新たな写真表現を切り開いています。11人による新たな可能性に満ちた写真表現の世界をご覧下さい。

http://www.museum.or.jp/modules/im_event/?controller=event_dtl&input%5Bid%5D=47340
>>>Exhibition Viewer: 写真ゲーム
http://d.hatena.ne.jp/n-291/20080123#p3

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>>>深川雅文『光のプロジェクト――写真、モダニズムを超えて』(青弓社

第1章 光の革命
 1 十九世紀、写真の誕生とその革命性
 2 写真の無差別性の分析
 3 「二十世紀=映像の時代」におけるテクストとテクノ画像
 4 二十一世紀、現代のテクノ画像の状況
 5 結びに――ある危機からの脱出のために

第2章 光で伝える――真実性の幻想
 1 ドイツ――フォトジャーナリズムの源流
 2 エーリッヒ・ザロモン――ヴァイマール共和国の写真幻想
 3 パウル・ヴォルフ――第三帝国と写真

第3章 光の話法――モダニズム写真論
 1 光と影――モホイ=ナジの射程
 2 写真におけるノイエ・ザッハリヒカイト――迫真性の幻想
 3 謎としてのアジェ

第4章 光の景観――風景写真の変容
 1 写真のルネサンス――アダムスの地平
 2 ベッヒャーの地平――モダニズムを超えて
 3 風景写真の転換――ルイス・ボルツの軌跡
 4 サイト・グラフィックス論――富士山からフジヤマへ

第5章 光のゆらぎ――曖昧さ・反物語・意味の遊走
 1 朦朧の美学――ジュリア・マーガレット・キャメロン
 2 森山大道――「等価」の詩学
 3 われわれは、いまどこにいるのか?――二十一世紀の初頭に

終章 光のプロジェクト
 1 写真ゲーム
 2 写真の遊戯性――作家の外在化
 3 写真のゲーム性――「関数」としての写真
 4 「世界コミュニケーションの時代」の写真の位相
 5 結語

http://www.seikyusha.co.jp/books/ISBN4-7872-7228-4.html
http://www.bk1.co.jp/product/02798846
深川雅文さんの単著。表紙写真はエル・リシツキー。
とりあえず必読。


◇ ヴィレム・フルッサー『写真の哲学のために―テクノロジーとヴィジュアルカルチャー』
http://www.amazon.co.jp/dp/4326153407/


◇ グローバル・フォトグラフィー・ナウ:東アジア@テート・モダン
http://d.hatena.ne.jp/n-291/20061003#p2


◇ サイトグラフィックス考 深川雅文
http://park14.wakwak.com/~pg-web/log_sg.html

http://d.hatena.ne.jp/n-291/20070621#p6