Übungsplatz〔練習場〕

福居伸宏 Nobuhiro Fukui https://fknb291.info/

対談:ホンマタカシ× 大竹昭子(1999年3月9日 構成:佐々木直也 WIRED VISION)より抜粋&関連リンク

ホンマ ただ、かえって増えすぎちゃって、写真として意味のないところとか、身のまわりのものを撮る人ばっかりになっちゃったでしょ。そのへん、なにかぼくも誤解されてるんじゃないかなって思うんですよね。たとえば朝日新聞の書評で、藤原(新也)さんが、ぼくと佐内(正史)をひとくくりに書いたりするでしょ。

大竹 そうよね、あれには驚いたわよね!

ホンマ 「新郊外写真」って名づけてるんだけど、ぜんぜんぼくと佐内のやり方ってちがうと思うんですよ。そういう意味では、藤原さんのコメントより、展覧会の会場にきた人がアンケートに書いてたんですけど、ホンマさんの写真はすごく冷たくて近寄りがたい感じがあるけど、佐内さんの写真には日曜日に布団を干したときの温かさのようなものを感じますって。まあ、こっちの方が本質に近いですよね。

http://wiredvision.jp/archives/special/interview_visual_artists/199903090100.html

大竹 わたしにはね、荒木さんが『写真術』で言っていることがすごく面白くて、笑って読んじゃったんだけど。「うん、写真に対するきちんとした態度とか考え方が出てるね、あなたの写真は。標準の目でしっかり相手と対峙してるでしょ、もう老境だな、これは」なーんて言ってるじゃない。これはもう、いっかにも荒木さんらしいいい方だと思ったのよね。

彼も『都市の幸福』(マガジンハウス刊)でニュータウンを撮っているけど、途中で幸福感っていう温度を出してやろうとヤラセを入れた、とか言ってる。これ、いかにも彼らしい言い方だと思うのよ。けっきょく写真ってどう言うかでしょ。

ホンマ ああ言えば、こう言うだから(笑)。

http://wiredvision.jp/archives/special/interview_visual_artists/199903090200.html

大竹 あれも子どもに話しかけたりしないで、ものの1分くらいでパッと終わっちゃうわけ?

ホンマ そうですね、なにやってんのとか、そういう会話は一切しない。その方が圧倒的にリアリティを感じられるんですよ。この前も注文仕事で、子どもをスタジオにわっと集めて撮る機会があったんだけど、またデザイナーがじゃあ楽しく遊んでなじんでから撮ろうねえ、なんていってるんですよ。そんなのすぐ撮った方が絶対にいいに決まってるのに。

大竹 そうよね、そうすると嘘臭くなっちゃうよね。

ホンマ だから、ぼくからすると、荒木さんや篠山さんが撮ってる写真も、やっぱり分かりあったっていうことでいえば広告写真っぽいなって。それがなんか嘘だなって思うんですよ。

ぼくが話しかけたりしないのは、そういう嘘をつきたくないっていうのもすごくあって、それで撮れなきゃしょうがないとも思うし。その緊張感の関係性っていうのが、ぼくにとってはリアリティなんですよね。

大竹 写真におけるリアリティーっていうのも、時代によって変わってくるものだと思うのよね。前の時代の写真家がやった予定調和的なものを崩すことで、リアリティーって出てくるものだから。で、ホンマさんの子供の写真を見るとすぐに、これは笑ったり話しかけたりして関係づけて撮ったんじゃないらしいってことは分かるわけよ。でもそこにあるリアルさが、どういう風に撮られたのかが想像つかないのよね。反射神経なんだろうなとしか思えない。出合い頭の反応みたいな。

ホンマ でもそれプラス、カメラ技術ってあるんですよ。あれを出合い頭で手持ちのビッグミニみたいなので撮るでしょ。 ぼくの場合は、技術的にいうと、反則っていうか掟破りなんですよ。やっぱりゲームセンターみたいに狭くて、しかも照明が暗いところで、三脚たてて4×5のカメラで、しかもササッと人間を撮るっていうのは、たぶん誰もやってないと思うから。篠山さんだったらストロボたくだろうし、すんごいセット組んでやるだろうし。荒木さんだったら内蔵のストロボで撮るでしょ。

だからみんなが技術的にやってないこともやってるってところも、ちゃんと写真に出てるんだと思うんですよね。ペット写真もふつうは三脚立てて4×5で撮ったりしないですからね。

大竹 3月号の「アサヒカメラ」で、谷川俊太郎さんと飯沢耕太郎さんがホンマさんの写真集のことを話しているでしょ。風景と人の写真がまじっていると、つい人のほうを見てしまうとか、対象をつき離して見る力が弱いとか、人や犬の写真を入れるところに恨みつらみが出ているとか。あれってどう思いました?

ホンマ あー、あれに関しては、なんでそんなに写真というか表現に対して鈍感な人が評論家なんていってんのかなーと思いますね。

大竹 わたしはあれを読んで、的外れだと思う反面、なるほどと思う部分もあっておもしろかったのよ。つまりこのふたりはニュータウンってほとんど行ったことがないんだろうなと思ったのね。それが写真の見方に出てる。わたしも『東京人』の連載で行くまで、意識的に見ることがなかったから、よく分かるんだけど、風景写真を薄く感じて、人物写真を濃く感じるっていうのは、ニュータウンを知らなければ当然の反応なのよ。人の眼ってそうできているからね。

で、わたしの場合は一年間ニュータウンを歩きまわって、空気感とか質感とか色彩とかに接して、それでホンマさんの写真を見たとき、懐かしい、と言ったら言いすぎだけれど、ある種の感興を覚えたのよね、ああ、この風景は知ってる、みたいな。そのことに自分でちょっと驚いたの。だって歩きまわってたときは、つまんない風景だなと思ってたんだからさ。ああいう街に暮らしている人、とくにそこで育った若い人たちは、その感覚はもっと強いだろうと思うのね。パルコ展でもくいいるように見てた子たちがいたもんね。

あと、谷川さんが「意識下が荒れてる」って言ってたでしょう。あれについてはどう思った?

ホンマ 単純だなーと思ったけど。

大竹 わたしは、これは賛辞ととっていいなと思ったのね。谷川さん自身は、荒れを見るのがシンドイみたいな文脈で言ってたんだけど……。だって「荒れ」というとネガティブに聞こえるけど、これもことばの綾で、「揺れ」って言ったって同じことよ。ようするに写真から感じられるものが、ソリッドでなくて、液状だということ。ポジティブに言い直せば、揺らぎがあって色っぽいということなんだから。ほんとみんな言い方なんだから、写真を巡ることばって。

http://wiredvision.jp/archives/special/interview_visual_artists/199903090300.html

大竹 ところでさ、プリントの色がよく話題になるけど、自分の色を意識するっていうのは、なにかきっかけがあったの?

ホンマ うーん、それはすごくいわれるんですけど、ぼく自身はほんとうにフツウにやってるつもりなんですよ。ぜんぜんプリントに時間かけないし。こだわったりもしない。逆にぼくからすると、これまでみんなが焼き込みすぎてたんじゃないかなと思うんですよね、わざと味を出すために。ぼくはその一切をやめただけなんですよ。

実際、東京で空を見てると、ぼくの写真の方がやっぱり現実に近いと思いますよね。藤原(新也)さんが撮る写真の、あんなに空って青くないですからね。あんなふうに暗く落ち込んだりしないでしょ。それより、ぜんぜんぼくの方がフツウ。それを藤原さんとかが脱色とか漂白っていうんですけど。

大竹 手を加えてないスピード写真的な写真ってちっとも芸術っぽくないじゃない? 反対に焼き込んだり、アンダーに撮ったりすると、なんか様になるっていうか、ありがたい感じになるものね。

ホンマ そういう傾向に対しては、大学に入ったときからずっと嫌悪感がありましたね。ぼく、マンガ好きなんですけど、マンガもある時期、たとえば岡崎(京子)さんとかの時期から、書き込みがすごく少なくなるんですよね。その感覚と、ぼくのプリントってちょっと似てるんじゃないかなあ。

あとね、これも昔からなんですけど、ぼくがけっこうイヤなのはね、こだわり。この焼き込みにこだわりましたっていうのがイヤなんですよね。だから荒木さんでいちばん好きなのは、プリントにこだわらないっていうことかな(笑)。撮ったら撮りっぱなし。篠山さんもわりとそうなんですよね。

http://wiredvision.jp/archives/special/interview_visual_artists/199903090400.html

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>>>清水穣『白と黒で──写真と……』(現代思潮新社)より その2

 別の意味でわかりやすい、つまり消費しやすいのがホンマタカシ『東京の子供』(リトルモア、二〇〇一年)であろう。この人の『東京郊外』は、「スーパーフラット」な東京郊外のウサギ小屋を、美術界で大流行の「タイポロジー」で撮影して日本写真界に持ち込んだ、企画ものであった。七〇年代に荒木経惟が広告の「リアル」に「私」を賭けたのは、広告ではない自我が辛うじて存在しえたからだが、現在の我々にそのようなものはない。だからかつてラディカルな行為も、今は計算ずくの自己プロデュースにしか見えないのである。つまり、ホンマタカシホンマタカシのプロデューサーだということだ。アーティストではなく上手なプロデューサーであること自体は、メジャーを目指して自己に適した手段をとることだから批判されるべき筋ではない。しかし、制作からプロデュースから批評まで自己完結した彼の写真を他人が「見る」必然性がどこにあるのだろう。ステレオタイプの作品には「これは広告です」というメッセージのほか何も写っていない。次作は「東京の女」かと期待していたら「ニューヨーク」であった(さすが)。

▽清水穣さんの身も蓋もないきわめて厳しい論調(メディア芸者的語り口に比して)からすると、

 やはりホンマタカシさんや川内倫子さんの写真は、清水さんの趣味じゃないということでしょうか。

 そういえば、メディアに露出の多い写真家(フォトグラファー? カメラマン?)を

 きっちりと論評するような(少なくとも言うべきことを言う、言いにくいことも言ってしまう)批評家は、

 きまって商業媒体に露出しなくても食べられる人々(それとは別に本業がある)のように思います。

 商業媒体やその周辺でやっていくほかない人々は、

 お得意様をけっして悪く言わないのが特徴です(未来のお得意様になりそうな相手ももちろん含む)。

 なんだか、鎌田哲哉さんの「経済的自立は精神的自立の必要条件である」というテーゼを思い出しました。

 http://d.hatena.ne.jp/n-291/20051222#p6

 http://d.hatena.ne.jp/n-291/20051228#p14

荒木経惟さんはどう見ても「計算ずくの自己プロデュースにしか見えない」のに、嫌みな感じがあまりしないのは何故か?

 そういえば、浅田彰さんは、荒木経惟さんと森山大道さんをまったく認めていませんが……中平卓馬さんは絶賛。

 あと、たしか東京都現代美術館に所蔵されている作品に、荒木さんがホンマさんとよく似たスタイルで撮影した

 ニュータウンの住宅の写真(やや色が濃いめ?)があったように思います。

 現在、東京都現代美術館の常設の最後の部屋(宮島達男さんルーム)に

 ホンマさんの『東京郊外』が展示されています(2〜3点だったと思います)。

 しかし、薄暗い部屋なので光の状態が悪くて

 何だかイマイチでした(色彩が重要なファクターを占めるということでしょうか)。

▽「計算ずくの自己プロデュース」で思い出すのは、ホンマさんと同様に

 日芸日本大学藝術学部写真学科)→ライトパブリシティというルートを経由して

 フリーランス・フォトグラファー(カメラマン)になった

 digi-KISHIN! a.k.a. シノヤマキシン氏(しのやまきしん名義も!)=篠山紀信さんの動向です。

 「ストックフォトに写真を提供」の次はどういった切り込み方をしてくるのでしょうか?

 できれば有能な編集者か出版プロデューサーと組んで、

 『晴れた日』や『オレレオララ』の頃の輝きを取り戻してほしいものです。

▽清水さんは、ホンマさんを完全にプロデューサー扱いで斬り捨ててますが、

 『きわめてよいふうけい』と『カメラになった男 写真家 中平卓馬』の一件なんかが、

 すでに耳に入っていたのかもしれません。

 http://d.hatena.ne.jp/n-291/20070619#p7

▽しかし、ホンマさんは何かの雑誌で、広告も自分の作品も同じテンションで分け隔てなく撮って、

 作品点数が溜まってきた50代・60代で勝負する(うろ覚え)というふうなことを語っていたので、

 現時点でどう言われようと、あまり興味はないのかもしれません。

 http://d.hatena.ne.jp/n-291/20070902#20070902fn2

▽先日、展示を見たホンマさんの『東京郊外』の写真は、撮影当時の都市部に住む人々の平均的生活感覚よりも

 ほんの少し先を行くような洒脱さとクールさを醸し出すように撮られているように思いました。

 だから、今の時代の眼で見ると、時代に追いつかれてしまっている部分が容易に感じられて、

 古く見えてしまうのかもしれません。

 http://d.hatena.ne.jp/n-291/20080520#p3

▽ここに広告という観点を導入してみると、広告写真とはつねに時代の半歩先〜二三歩先を行くものだから、

 『東京郊外』の写真が、撮影された当時の鑑賞者の感覚とベタな広告写真のあわいをゆく絶妙の距離感、

 つまり、ドクター茂木健一郎的に身近にも感じられるけどちょっと先を行っていて、

 でも少々どんくさい部分もあるというふうな半歩先の距離(http://d.hatena.ne.jp/n-291/20070706#p11

 でもなく、セグメンテーションによる戦略的優位を戦術的にはあえて放棄してみせることが

 逆に「カッコイイ」んですこれが! 今は! というような、装われた身振りによる、さかさまの戦術としての

 三歩以上先を行く突っ走り方でもない、その中間を浮遊するかのような距離を成立させていたのだとしても、

 商業主義におきまりの「What's next?」的慣習行動の同調化圧力(同調圧力)によって時代が移り変わって、

 広告写真のトレンド(笑)と後期資本主義下にある人々の生活感覚がそれにひきずられる形で

 次の段階にスライドしていったときに、清水穣さんの言葉を借りれば、人々の心を吸引する広告的な真空度が

 もはや充分ではなくなってしまうというか。

http://d.hatena.ne.jp/n-291/20080522#p2


>>>清水穣『白と黒で──写真と……』(現代思潮新社)より その1

[略] それは、荒木経惟の頃から「下手ウマ」として多様化し、全ての差異を吸収できるようになった広告写真なのだ。だから「私の撮った写真とどこが違うのか」という冒頭の問いは、そこでは「広告写真とどこが違うのか」とずらされ、スナップ写真と広告写真の差異が問題化される。もっとも、この問いが我々を導く先は写真の本質というよりも、現在写真を撮る苛酷な条件にほかならない。「世界は写真だ」は二五年を経て「世界は広告だ」になった。つまりすでに広告写真にならない写真は存在しない。スナップ写真は広告写真よりもノイジーな夾雑物が多く不純なのであり、真空度が充分でない、というふうに差異をつけてみる、とたんに、ノイジーなスナップ写真が広告にされるだろう。後に述べるティルマンス(彼もまた変容した広告雑誌でデビューした)の「戦争」がどれほど困難であり、広告に吸収されてしまわないために厳密な戦略を必要とするかが窺い知れるはずである。

 ところが、若手作家の多くの写真には、明るい午後の叙情というか京王線沿線の日曜日というか、希薄な叙情が満ちている。木漏れ日をまぶしそうに見あげ、春霞のように露出オーバーで、美しく輝く今ここでの生の瞬間を切り取って残したい……人々のなんと多いことか。写真を撮ることで「今このとき」を直ちに「過去」にして「思い出」として所有したがる強迫的な欲望は、「今」を充満させる自己が空っぽであるという事実に由来する。九〇年代以降の世代、それは自己と身体の隅々まで広告にほかならない世代であり、それ以外の自己や身体を知らない。「人間だったらよかったのに」、むしろ内面という商品をあてがわれ続けた昆虫的存在であって、全面的な「おいしい生活」のなかで生まれ、養殖されてきた世代なのである。叙情とはうつろな容器に溜まっていく液体であるから、広告はかならず叙情的であり、叙情的広告こそは若い世代の「私」を充たし養ってきた。自分に正直であるとは、うつろな「私」に「叙情」が溜まるがままに任せるということなのだ。アラーキーの子供たちはアラーキーが戦略的に選択したことを、生来の状態として体現してしまっていると言えるかも知れない。

[P157-158]

荒木経惟さんが、「下手ウマ」とされたのは、おそらく先行する世代である

 VIVO(川田喜久治、佐藤明、丹野章、東松照明奈良原一高細江英公)との比較による?

▽しかし、湯村輝彦さん以前に「下手ウマ」(ヘタウマ)という言葉はあったんでしょうか。

 それとも荒木さんが、そう呼ばれた(自称した?)のは80年代以降?

ティルマンスの戦い=勝ち取るべきヨーロッパ的「私」「個」の問題。

杉本博司さんは自分の写真が広告に使用されることを完全に拒否してきた。

▽「僕は描きたいものしか描かないよ」by 奈良美智さん

▽目指すところ次第では、年中5月の春霞→絞り開放、逆光、ハレーション、露出オーバー、タンスグテンという方法もアリでは?

 いや、やっぱ今となっては厳しそうです。

▽「おいしい生活」=西武セゾングループ広告コピー。糸井重里さん作。

 糸井さんの代表作には、「不思議、大好き」「くう ねる あそぶ」「ロマンチックが、したいなあ」

 「じぶん、新発見。」 「ほしいものが、ほしいわ。」 「本当の主役は、あなたです。」

 「おとなもこどもも、おねーさんも」「いまのキミはピカピカに光って」 「僕の君は世界一」

 「いいにおいがします。」 「おちこんだりもしたけれど、私はげんきです。」 「私はワタシと旅にでる。」などがある。

 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B3%B8%E4%BA%95%E9%87%8D%E9%87%8C

▽ある搾取構造の存在? それはどこにでもある?

http://d.hatena.ne.jp/n-291/20080521#p3


>>>ホンマタカシ 「東京」@GALLERY 360°
http://d.hatena.ne.jp/n-291/20080520#p3


>>>スポッティング? 修正? 不自然? ネガの傷? ……

スポッティングといえば、渋谷パルコ・パート1のロゴスギャラリーで開催されたホンマタカシ写真展「NEW WAVES」ですが、
あのいちばんデカいサイズのプリントのド真ん中に大きなゴミ(ネガの傷?)が残っていて、
スポッティングもなしに、そのまま展示されていました。
好意的に解釈すれば、写真の物質性???
しかし、それを誰も展評とかブログで指摘していなかったことを思い出しました。

http://d.hatena.ne.jp/n-291/20070919#p4


>>>ちょっと前に人に聞いた話
http://d.hatena.ne.jp/n-291/20090414#p2


>>>「謎の山岳写真家 寅彦」関連
http://d.hatena.ne.jp/n-291/20090708#p4


>>>備忘録・シャシン(20-05-2006) - konkretのアートダイアリー

一方、野口里佳は面白いものを面白く撮る。面白くないものでも面白く撮る。本当は小柳は一応野口やっているとHPにはあったが常設展ということだったので行くのやめようかなあと思っていたけど、行ってよかった。新作じゃないから特に新しい発見ということはなかったけど(それは今回久々ギャラリーで見たホンマタカシにあった。)、幸せな気分になった。佐内正史も95年の写真集「生きている」の頃の未発表写真を自ら選び展示していた(今後、このサナイ自身のセレクションをシリーズとしてnichidoでやってくらしい)。その少し後に、自分も写真を撮っていた時期があったから、その時代にこういう対象をこういうふうに撮りたい、こういう色目にしたいという気持ちがすごいわかる感じで、懐かしかった。さらにどうでもいいこと書けば、この曲聴くとあの頃思い出すわ的な感じでもある。こうした日本の写真家の写真が私にとってはJ-Pop(←それは聴かぬ身の上なれば)。ホンマタカシしかり、野口里佳しかり。


そういう気分がそうさせたのか、家に帰って明け方、岡崎京子の「リバーズエッジ」を数年ぶりに読んだ。リアルタイムではなく、ホンマや佐内が盛り上がっていた頃、98年頃単行本買って何度も何度も読んだマンガだけど(夜、多摩川の河原でリバーズエッジごっこもしたし)、ここ数年は手にとることもなかった。前にユリイカ岡崎京子の特集やっていたとき、リバーズエッジは岡崎にしては少し情緒的すぎるということを誰か書いていたけど(気になって調べたら宮台が「痛みがベタにかかれている」からあまり好きじゃない、て書いてた。情緒的という理解は方法論的には違うのだが受容の側からは同じだ、ということで)、そのときは「そっかなあ、そういう気しないけど」と思っていた。しかし、今回は胸が痛んだ。涙すら出た。情緒情緒。これはJ-Popで懐かし悲しく(あのときにはこの歌詞の意味がわかってなかった、とか)なる気分と同じではなかろうか。そして、今日見た3人の昔の写真では(ギャラリーに置いてある写真集のページめくったとき)それに似たことが起きた。森山大道アラーキーの写真ではそれはないのに。そこがJ-Popと重ね合わせるモメント。だから単なる流行とか良くないとか言うつもりはなく(少しあるのかもしれないが)、いつのまにかそういうことになっている写真があって、森山やアラーキーの写真にはあるゲイジュツとして残る可能性、が、これらにないとしても、別の何かとして生き長らえるのではないか、など思った(いや、まだ写真家としては若い彼/彼女らだった。まだまだ何もわからない)。

http://d.hatena.ne.jp/n-291/20080530#p2


>>>栗原裕一郎さん(id:ykurihara)のTwitterより

浅田彰【「J回帰」の行方】 - 批評空間【批評空間アーカイヴ】
http://www.kojinkaratani.com/criticalspace/old/special/asada/voice0003.html
http://www.kojinkaratani.com/criticalspace/old/special/asada.html(批評空間【浅田彰アーカイヴ】)

http://d.hatena.ne.jp/n-291/20090723#p4


>>>『美術手帖』最新号(2007年7月)の特集が最高に酷かったです。
http://d.hatena.ne.jp/n-291/20070619#p4


>>>新風舎「写真時間 シャシンジカン」のキャッシュより
http://d.hatena.ne.jp/n-291/20071010#p6


>>>「言葉が生まれるとき」藤原新也(Shinya talk
http://d.hatena.ne.jp/n-291/20081031#p7


>>>リファラをたどっていて発見
http://d.hatena.ne.jp/n-291/20090519#p4


※過去の飯沢耕太郎さん関連
http://d.hatena.ne.jp/n-291/searchdiary?word=%c8%d3%c2%f4%b9%cc%c2%c0%cf%ba