Übungsplatz〔練習場〕

福居伸宏 Nobuhiro Fukui https://fknb291.info/

「そもそもグリッチ=(イコール)ノイズではない。....」

◇ 『Glitch: designing imperfection』書評 - 針谷周作の日記

"glitch"という言葉は、ドイツ語とカフカも使っていたイーディッシュ語の「滑る」から由来しているのだが、本書の中では、グリッチとは、パソコンやテレビなどの電子機器から発せられるノイズのことであり、それは、今の時代、多くの人から忌み嫌われる存在として知られている。本来の目的に至る過程でパソコンの画面がクラッシュした際に現れる、支離滅裂なノイズ。継続的に現れることは少ないため、普通の人であれば、「ああクラッシュしちゃったね」と電源プラグを引っこ抜くか、故障したといって修理に出したり、あるいは捨てたりするのが普通であろう。

しかしながら、この本に登場する人たちは、そのクラッシュした画面のスクリーンショットを撮り、あるいはデジカメで撮影し、しっかりと保存している。しかもそこに、美学を見いだしているのだ。考えてみると、こうした嗜好は、エラーや間違いが許されない、窮屈な現代社会の中においては、希有な存在だ。本来は失敗がつきものの人間にとっては、実は、ありがたい提示がされた本であるとも言える。

http://d.hatena.ne.jp/sensor/20100113


◇ 『Glitch: designing imperfection』書評 - Sensor

グリッチ」をあえて別の言葉で表現するならば、機能不全を指す。ノイズが、沈黙と対置され、あるいは同様の意味を持つものに対して、グリッチとは、ノイズをミクロに解析し、その中に美学的立場を擁するものである。現在、グリッチが、このような概念を内包するものとして確固たるジャンルを築きあげたのは、その発展においてコンピュータとインターネットの歴史が深く関わっていることに目を向ける必要もあるだろう。その中には、やはりNatoの制作者である、ネトチカ・ネズヴァノヴァ、およびその周辺のクリエイションも多分に影響を及ぼしていると言えるだろう。なぜなら、コンピュータミュージックをやってきた一部のギークたちにとって、nato.0+55+3d modularという存在は、音楽と映像を同時に扱えるモデュラーとして、彼らに広く映像制作を行う機会を与えたからだ。

 わたしは、いまの窮屈な社会のことを考えると、クリストフ・シャルルが提示する「相互浸透」という概念を想起せずにはいられないのだが、コンピュータが広く社会に浸透することで、人間にもコンピュータと同様の正確な処理が求められつつある昨今、実は、グリッチは、「相互浸透」を促すいい転換点になると思うのだ。なぜなら、人が発するエラーの中にこそ、ユニークで現状を打破するアイデアが眠っているという気づきは、人間の進化において、多くを解決する新しい視点となり得るのではないかとも思えるからだ。失敗すれば、すぐに逸脱させられてしまうという社会では、面白いものは生まれない。コンピュータが浸透した社会にとって、グリッチは、かつての巨匠たちが創作過程で経験してきたように、新たなアイデアを生み出すために通過すべきトピックであるとも言える。そう考えていけば、グリッチとは、やはり、ノイズを取り入れる、あるいはノイズそのものへと向かうミクロな視点という単なる形式から逸脱し、より広く定義を構えるものとなる。

http://www.hariyashusaku.com/blog/?p=33


◇ Glitch Book - a set on Flickr
http://www.flickr.com/photos/organised/sets/72157622118164394/


>>>不適切な肖像写真というわけでもなさそうですが。。。
http://d.hatena.ne.jp/n-291/20070906#p3
http://d.hatena.ne.jp/n-291/20080831#p1


◇ 美しいコンピューターのエラー画面 - Gizmodo Japan(ギズモード・ジャパン)
http://www.gizmodo.jp/2009/09/post_6175.html

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◇ 2007-06-23 - 針谷周作の日記

natoとnetochkaについて(初出parco flyer)

※もう何年も前に書いたテキストなので、テクニカルな情報に関しては無視して読んでください。


 natoをすでに所有し正しくインストールできている者なら、maxを起動させればモニターに激しく走るフリッカーを目の当たりにするだろう。このリアルタイム/ノンリアルタイム画像処理ソフトである「nato.0+55+3dモジュラー」は、 音楽やメディアアートなどに利用されているmax(msp)をベースに稼働するもので、ネトチカ・ネズヴァノヴァというたった一人の女性により制作されたものだ(ということになっている)。また最近、ドイツのauv-i(www.auv-i.de)からサードパーティnatoオブジェクトも発売されたことで、より強力なエフェクト機能を追加し、natoを介したスピーディで強力な画像処理、制作が可能になった。通常の映像編集ソフトがレンダリングに長時間かかるのに対し、natoは実にこれをリアルタイムにやってのける(※追加オブジェクトが必要なケースもある)。

 そもそも彼/女(ら)が主催していたwww.god-emil.dk、およびwww.m9ndfukc.orgのサイトは、アムステルダムのコミュニティサイトnettimeとsyndicateの関係者によってシャットダウンさせられた歴史があるようだが、執拗なスパムメールやメディア/アート論者、キュレイターから送られたメールを公な場で(もちろん名指しで)公開し嘲笑するような態度に頭を悩ませていたのが理由であろう。その後、今度はネトチカ自身が他のサイトをダウンさせたりしていることもあり、かつてネットテロリストと称されたのも無理はない。そして、アメリカ人やある特定の国には(これも度々変更されるのだが)nato税(とでもいうのだろうか)を果たし販売したりすることから、一部では非常に嫌悪されている存在でもある。

 過去の名義である"=cw4t7abs"は翻訳するとsquat labs(不法占拠研究機関)となる。アムステルダムのde waag / the society for old and new media(新旧メディア協会)周辺などにも(単に仮説だが)関係していたかもしれない。民族紛争が今なお行なわれるクロアチアや、自国の市民運動などを支える基盤となってきた同組織では、アメリカのテクノロジー覇権から脱却するため独自のソフトやブラウザー開発を行ってきた。例えばインターネットのIPアドレスは現在4つの数字の組み合わせから成っているのだが、その組み合わせから絶対数が決まっており、ヨーロッパの一部や中東地域などには配布されないという現状がある(6桁のIP規格が近々主にアジアや中東地域に向けに開発されつつある)。そこに様々な政治が見え隠れしているのであるが、そういった状態から脱却しヨーロッパなりの電子的空間や閲覧フォーマットを確立していこうという動きから、オランダには上記のような組織周辺に欧州各地より集まった学者やプログラマーが多数存在していた。最近いっせいに取り締まりを受けたwarezのようなクラッカー集団、あるいはプログラミングに長けたハッカー組織も多数存在していたことから、ネトチカのような制作スタンス、すなわち匿名を使ってネットワークで数名と共有し、一つのプロジェクトを作り上げることは、さして珍しいことではないだろう。彼女(そのメンバーの一人は)は実在する人物であり現在はオランダのSteimで音楽を制作中であるが、現在natoを使うアーティストの多くがここSteimに何らかの形で関わっていることも非常に興味深い。

http://d.hatena.ne.jp/sensor/20070623


◇ 2009-03-07 - 針谷周作の日記

話が大分逸れたが、わたしにとって、グリッチとは、生き方だ。情報資本主義の末期的な時代をユニークに生き抜くためのメソッドだ。ドゥボールの『スペクタクルの社会』で示されたような、資本主義の最終的な状況が、ミクロな部分においても散見されるような昨今において、グリッチは、新たな回路を創出するかも知れない。それは、かつてないような、ファンタスティックで諧謔的な方法により、誰という誰でもないような人たちによって、「普通に」実行されるようになるかも知れない。


『OK.Failure』(※2nd issue)

http://www.ok-periodicals.com/

『Glitch: Perfect Imperfections』

http://www.amazon.com/Glitch-Perfect-Imperfections-Iman-Moradi/dp/0979966663

http://d.hatena.ne.jp/sensor/20090307

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◇ 失敗の美学 - はやしのブログ

ここで「エレクトロニック・ミュージックの新たな領域」と言われているのは「グリッチ」と呼ばれるジャンルであり、その誕生には「失敗」が大きく寄与していた、という筋書きである。それでは、その「失敗」とは何か? たとえば、カスコーンが「失敗」の例として挙げるのは、オヴァルの「CDスキッピング」である。

「CDスキッピング」とは、CDの反射面にキズ、ほこりなどが付くことによって発生する、レコードで言うところの「針飛び」であり、要は「ノイズ=非楽音」である。そうしたCDスキッピングをオヴァルは、CDの反射面にフェルトペンで落書きをすることによって意図的に発生させる。そして、そうして生じた「ノイズ」を用いて、オヴァルは「音楽」を創る。

本来だったら「エラー」として避けられるべき「雑音」を、「楽音」として新たに導入しなおすこと。これが「グリッチ」を特徴付けるものである(カスコーンはこうした「失敗の美学」の起源として、未来派ルイジ・ルッソロの「イントナルモーリ(雑音発生器)」や、ジョン・ケージの「4分33秒」を挙げる。ルッソロもケージも、「楽音/非楽音」の位置ずらしをした、というわけだ)。

それは、「演奏の失敗」を、テープに定着させ、さらにはそれを元に曲を構築することによって、「失敗」を失敗でなくしてしまう、そんな試みであった。そうした成果の一端が、カニンガムがプロデューサを勤めたThis Heatの1stであり、自身のリーディングバンドフライング・リザーズの1stである(This Heatの楽曲は、「即興演奏の録音→その録音テープを元にした再構築→再構築されたものをさらに演奏」という工程を経て創られている)。

http://hblo.blog.shinobi.jp/Entry/514/


>>>ディス・ヒートのライブ映像(YouTube
http://d.hatena.ne.jp/n-291/20060719#p2

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グリッチ小史 - はやしのブログ

パン・ソニックというフィンランドのプロデューサー二人組(彼らは、松下の法務担当員から名前を変えるよう求められるまでは「パナソニック」と名乗っていた)は、エレクトロニカにおける実験に最初に手を染めたものたちの一組に数えられる。パン・ソニックサウンドを主に構築するミカ・ヴァイニオは、自家製サイン波発生器や、安価なエフェクトペダル、そしてシンセサイザーを使って、高度に合成的/統合的で、ミニマル、そしてエッジの効きまくったサウンドを創り出した。彼らのファーストCDVakio は1993年の夏にリリースされたが、同時期に流行っていた「アンビエントテクノ」というより穏やかな流れに比べると、まさに「音の衝撃波」であった。パン・ソニックサウンドは、荒涼としながらも何かが咲き乱れているような工業地帯の風景を想起させた。最初は大人しいテストトーンも、次第にサイン波の低く震えるドローンや、突き刺すような高周波となって溢れ出す。ヴァイニオが創立したレコードレーベルSähkö Recordsは、着々とそのリリース数を増やしているが、そこに属するアーティストたちの音は、パン・ソニックのような合成的で、音の削ぎ落とされたミニマルなものである。

前述したように(はやし注:ここでは訳出されていない部分)、ドイツのプロジェクトであるオヴァルは、「CDスキッピング」というテクニックを用い、グリッチの新しい流れを創り出した。何重にも重なり、そして細かく動き回るテクスチャからなる音の土台が、ゆったりと動く、というのが、オヴァルが創り出したグリッチの新たな流れの一つである。他のドイツのグループマウス・オン・マーズは、このような「グリッチの美学」を、よりダンサンブルなフレームワークに流し込み、ざらついたローファイなリズム層が互いに重なり合う、という音を創り出した。

その中で、日本のプロデューサである池田亮司は、ミカ・ヴァイニオと同様、寒々とした剥き出しの電子音を前面に押し出した、最初のアーティストの一人である。ヴァイニオと比べると池田亮司は、グリッチに厳粛な精神性を持ち込んだ、と言える。+/-と題された彼の1stCDは、グリッチに新しい地平を開いた。そこで聴かれるサウンドは、高周波と短い音が繊細に用いられたもので、聴取者の耳を捉え、「耳鳴り」のような聴取体験を齎すものだ。

池田亮司のように、繊細な音響と破壊的音響を架橋したアーティストとして、他にカールステン・ニコライがいる(彼はノトという名の下、レコードを出し、ライヴを行っている)。ニコライはまた、ラスタ・ノトンという、革新的デジタル・ミュージックに特化したドイツのレーベルの共同設立者でもある。同じ「革新的デジタル・ミュージック」ということで言えば、ピーター・レーバーグ、クリスチャン・フェネス、音響/ネット・アート集団であるファーマーズ・マニュアル、といった面々からなる、ウィーンのメゴもある。ちなみに、レーバーグは、その電子音楽への貢献が評価され、受賞者が毎回二人しかいないアルス・エレクトロニカ・アワード(電子音楽部門)を受賞した。

http://hblo.blog.shinobi.jp/Entry/513/


>>>刀根康尚Sachiko M大友良英キッド・アイラック・アート・ホール(2月19日)

刀根康尚 〜今なお前衛であり続ける前衛の歴史(足立智美

しかし視覚的要素を伴ったインターメディア作品を主とする刀根の作業が我々の目の前に現れたのは『MUSICA ICONOLOGOS』(1993)と『SOLO FOR WOUNDED CD』(1996)という衝撃的な二枚のCDの登場による。
 『MUSICA ICONOLOGOS』は一聴したところ全編に渡ってただただ不可解なノイズが続く作品である。情報理論では不可解な音のことを「ノイズ」と呼ぶのだが、ここで感じるのはまた異なる事態である。例えばいわゆるノイズ・ミュージックがホワイト・ノイズを含めノイズを音響として最終的には音楽的な意志、美学のもとで統制するのとは異なり、この作品からそのような音楽性を見て取ることは不可能なのだ。ライナーノートによればこの作品は中国最古の詩集『詩経』から二つの詩を用いてつくられている。詩の漢字を一文字づつ関連する画像に置き換え、その画像を更にデジタル・データとしてコンピュータに読み込ませ、そのデータをサウンド・データとしてCDに焼き付ける。古代の詩がさまざまなメディアに移し替えられ、CDプレーヤーによって再生されるまでが一貫したプロセスとして作品化されている。最終的な音から出発点の詩の何物をも読みとることはできないが、しかしそれは明確に関係づけられている。結果として我々の耳に届くのは全く無意味な音そのものなのだ。いかにその音響が例えば「音響派」の音に近づいているとしても、正弦波を用いて音そのものであると称するような素朴なフェティシズムとは全く異なるものである。今世紀の電子音楽史を見回しても、ごくごく初期を除けば、そのほとんどが既成の楽器の音響をそのモデルにしていたか、少なくとも聴取と音とのフィードバックを前提にしていたことを考えれば、これは画期的な作品といえるだろう。
 続く『SOLO FOR WOUNDED CD』は更に衝撃的な作品である。これは端的にいって前作の『MUSICA ICONOLOGOS』にもう一つプロセスを付け加えただけの作品である。『MUSICA ICONOLOGOS』のCDにテープを貼り付けてプレーヤーで再生したものがもう一度CDに記録される。結果、デジタル・エラーの連鎖によるノイズが延々と続くのである。これはクリスチャン・マークレーがジャケットに入れずに流通させた『カヴァーのないレコード』のデジタル・メディアにおける同等品である。おそらくこのCDの正しい聴き方は更にわれわれ自身でCDにテープを貼り付けてプレーヤーに挿入してみることであろうか。

http://www.adachitomomi.com/j/a/text/tone.html

http://d.hatena.ne.jp/n-291/20080220#p4


>>>amiyoshida: 単純に音楽の受賞者はオール無視なんじゃないのかな。呼 ... - Twitter

単純に音楽の受賞者はオール無視なんじゃないのかな。呼ぶとしたら坂本瀧一とか刀根さんとかだもんね……。まあ、私が無名なだけかもしれないですが!受賞当時も日本からは一切、取材なかったしねーっ!一応、一番えらい賞を獲っております。http://bit.ly/7HYXIi 1:52 AM Jan 5th from web

http://twitter.com/amiyoshida/status/7399077021
2月2日から開催される『サイバーアーツジャパン−アルスエレクトロニカの30年』@東京都現代美術館についての
吉田アミさん(http://www2.tky.3web.ne.jp/~amie/)のコメント。


◇ Astro Twin / Cosmos - Ftarri CD ショップ

ディスク 1 には、微音音響ヴォイスの吉田アミとアナログ・シンセサイザーのユタカワサキのデュオ、アストロ・ツイン (Astro Twin)の2001年3月東京渋谷「アップリンク・ファクトリー」でのライヴと2002年3月ロンドン「スピッツ」でのライヴ、全2曲。ディスク 2 には、吉田アミとサインウェイヴのSachiko M のデュオ、コスモスの2002年3月ロンドン「スピッツ」でのライヴ、1曲(演奏時間 25分11秒)を収録。

http://www.ftarri.com/cdshop/goods/fmn/fmc-026-7.html
2003年、「アルス・エレクトロニカ」デジタルミュージック部門ゴールデン・ニカ賞受賞作。

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◇ 妄想音楽思想。 - デンシノオト

■[MEMO]ポスト・グリッチ社会への「モウソウ」。

http://d.hatena.ne.jp/post-it/20100115#p2