◇ オヴァルプロセス・レポート - TINAMIX
オヴァルのすばらしさは、彼のディスコグラフィーを参照し、聞くことでも確認できる。具体的なタイトルでいうなら“94 diskont”『szenario EP』には、音楽/音響として端的に素敵な曲が揃っている。機会があれば試しに聞いてみて絶対に損はない。
しかしオヴァルの可能性はむろんそこにとどまらない。彼の決定的な新しさは、マーカス・ポップが発案、開発したソフトウェア「オヴァルプロセス」にこそあるんだ。今回のシンポジウムタイトルも同じでしょ?――「オヴァルプロセス」
本誌のような非音楽誌が彼をチェックしていた理由は、このソフトウェアがきわめて斬新なコンセプトのもとで開発され、グラフィック・ユーザー・インターフェイスにすぐれた、一種の「音楽ゲーム」でもあること、これがすべて。マーカス・ポップ自身の言葉を借りれば、
「これを使えば、誰もがオヴァルになることが可能なんだ」
さあ、そろそろレポートに移ろうか。
http://www.tinami.com/x/report/12/
今回のレクチャーおよびこれまで断片的になされた情報提供を総合すると、マーカス・ポップの意図はきわめて明快だ。要するに彼が「オヴァルプロセス」でやりたいことは、制作におけるプロセス自体をソフトウェア、ゲーム化することによって当のプロセス(=ワークフロー、アプローチ)を変えること、究極的には個人の作家(=作品、製品、創造性)と切り離すことである。
途中シャルル氏がジョン・ケージに代表される「不確定性の音楽」に話をつなげたり、佐々木氏が「ある音楽がつくられていくプロセスでなく、ユーザーまで届けられるプロセスなのではないか」と発言するなど、この「プロセス」という言葉をめぐって議論がいささか錯綜する場面があった。
が、その理由として、「最終的な結果と過程が対立していた20世紀諸芸術の概念フレームのなかでプロセスという語が使われている」という東氏の整理は説得力があった。彼が「ジョン・ケージは絶対にケージプロセスという考え方をつくらなかっただろう」という通り、ケージの不確定性音楽とオヴァル(プロセス)の「計算可能性」はまったく異なった哲学によって支えられているからだ。
よってオヴァルのステートメントに従うなら、彼のいう「プロセス」は過程の強調ではなく、「結果と過程」そのフレームを越えていると考えるべきだろう。では、それはどのようにか。
http://www.tinami.com/x/report/12/page1.html
対立概念はなにも「結果と過程」だけにとどまらない。「作り手と受け手」「アーティストとリスナー」「製品と消費者」……ここでそれらを越える概念としてオヴァルが提示しているのが「ユーザー」だと思われる。つまりオヴァルの音楽を生みだす「プロセス」をリスナーに手渡したとき、リスナーはもはやリスナーではなく「ユーザー」という別の存在へと変化する。「オヴァルプロセス」はそのようなラジカルな発想に支えられている。
実際マーカス・ポップが無類のゲーム好きであることはよく知られている。彼が「オヴァルプロセス」のようなソフトウェアを発想した背景にゲームの影響があることは疑いない。そうでなければ数多くの批評タームにもまして「ゲーム」「ユーザー」「インタラクティヴ」などの言葉が使われることはなかったはずだ。しかし自身とゲームの関係について語るマーカス・ポップのステートメント=「オヴァルプロセス」はおそらく二つの側面から評価しなくてはならない。
というのも、一方でシンポジウムを通して明らかになった結論が、「オヴァルプロセス」がその理論的射程に反して「美術館におかれるインスタレーションの枠を越えて公開されることはない」というものだったからだ。
この結果に少なくとも私たちは失望せざるをえない。ビジネス展開を嫌う発言(eコマースはやらない、etc.)を繰り返すマーカス・ポップに対し、東氏はLinuxのようなオープンソース展開を考えていないのか問いただすが、「音楽の定義、フレームワークを考えるのが私の意図です。技術的には可能だが、ソフトウェアとして公開するのは私の意図にあわない」と答え、あくまで保守的な態度を貫き通していた。
他方で、「オヴァルプロセス」が提示した哲学自体は、ソフトウェアが公開されようがされまいが、勝手に力強く生きるだろう。それが抽象的でもメタファーでもなく、具体的にいま現在存在しているものだからだ。そして、それこそがこの場で語られるべきだった「ゲーム」ではないか。東氏がこう言っていた。
「オヴァルプロセスに影響を与えたゲームというものは、過程でも結果でもないんです。結果=過程みたいな、いわば可能性の束みたいなものなんです。可能性の束そのものを作品として出すものが、ゲーム、もしくはインタラクティブといわれているものの、美学的な決定的な新しさだと思うのですけど」
http://www.tinami.com/x/report/12/page2.html
http://www.tinami.com/x/report/12/page3.html
◇ OVALシンポジウム
佐々木:OVALが属しているカテゴリーで、特殊なことだという証明。OVALのメロディ
アスな要素、名曲と言われてもそれはサウンドデザインの部分であって、ある周波数の音
楽だということだけ(注:曲の出来は副産物ということ?)。どう聞き手に届けるのかが
問題。「プロセス」の意味はこの中にも含まれる。OVALPROCESSは何のためのものか?
何の役割のためなのか?OVALPROCESSは音作りのものではない。スパイラル置いてあ
るskotodeskはツールではなく音作りの環境を提供。使う側にとっては幅広い。音作りの
ゲームというイメージ。一方でOVALの音を組み合わせる、誰でもOVALになれるとい
うことの実際の提供かもしれない(注:音作りの環境とは周りの音と一緒にその場の音の
一つになるということか。と同時に誰でもOVALになれるというのは、skotodeskを通じ
てOVALの音と周囲の音を聞き(組み合わせを聞くことでOVAL化するということ
か。???))。
MAXも環境を作る(???)が「環境を作る」と「環境のための」では全く違う。(???)<補足説明>
佐々木さんがここの発言について補足説明をしてくれたので載せておきます。
1.サウンドデザイン、曲の作りについて。
*こうした態度は、初期のオヴァルに特徴的なことでした。「副産物」ではなくて、
それは明らかに意識的な配慮と操作のもとに作られているにもかかわらず、オヴァルに
とって「音楽的=美的な価値判断」は二義的なものに過ぎない、それは「デザイン的な
要素」だというわけです。しかし、この姿勢は、最近になって(特にcommersシリーズの
開始によって)かなり違ってきたとも思えます。でも僕は、今も変わらず、理論家として
のオヴァルと、実践者としてのオヴァルは、差し当たり分けて考えるべきだ、というか、
そうでないと理解できない部分が多いとも感じています。
*>オヴァルにとって「音楽的=美的な価値判断」は二義的なものに過ぎない、
>それは「デザイン的な要素」だというわけです。
佐々木さんと同じ事を言っているかもしれないですが、
曲の出来は意識して音楽を作っているが、それは「美的要素」をかなえるものではなく
「デザイン的」要素の組み合わせの結果だということでしょうか。と言うことは、デザイ
ンの出来で美的価値判断も生まれるということでしょうか。
デザインはゼロから作るのではなく、サウンドファイル等のあるものを組み合わせて
作ると考えています。自分の集めたサウンドファイルをOVALPROCESSに入れてあるのも
「デザイン的要素」の作曲方法と繋がるのでしょうか。(アイダ)
* 美的要素とデザイン的要素の対立、ということも、専らマーカス自身が初期の
インタビューで何度か述べていたことです。「デザイン」という言葉が誤解を生みやすい
のかもしれませんが、オヴァルの音楽は、基本的にサンプル・ループの重ね合わせと組み
合わせで出来ているといえるので、その組み合わせの「デザイン」ということもできるか
もしれません。
しかしこの場合は、それ以前のサンプルの選択と加工の部分も「デザイン」の過程では
あるわけです。「デザイン」というのは、自らの音楽的嗜好や感性を反映させたものでは
なく、もっと客観的な、たとえば「ひとが良いメロディだと思うであろう」音の繋がりを
意図的に作り出す、というようなことなのではないかと思います。
2.オブジェとして提供する意味(メモの「注」に対して)
*僕は周囲の環境についてはさほど留意していませんでした。オヴァルの戦略は、
音響的な条件の問題ではなく、それがある目的意識をもった(=オヴァルオブジェを見よう、
というような)者だけではなく、オヴァルのことをまったく知らない者でも、それを体験
できてしまうようなシチュエーションを提供するために、なんらかのパブリックな場所に
置こう、ということだと理解しています。「組み合わせを聴くことでオヴァル化する」と
いうより、サンプル、ループを組み合わせる部分をユーザーに明け渡してしまうことによって、
オヴァルのある要素を不特定多数に対して開放する、という意味です。
3.MAXも環境を作る〜
*max/mspなどとovalprocessが根本的に異なることは見たかたならすぐわかることですが、
この時は討議の進行上、シャルルさんへ繋ごうとしてこういう流れになりました。
http://www.geocities.co.jp/Hollywood-Studio/8679/musiclife/ovalsymposium.html
◇ Oval Live "Oval & Friends" 20010526@Cay - YouTube
http://youtu.be/QdS1GbwILFw
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>>>ナイーブに「デジタル/ケミカル」を論じてみたり、「デジタル=新しい」とみなすような態度は、
オヴァルのステートメント(http://d.hatena.ne.jp/n-291/20070503#p3)や
フリードリッヒ・キットラーの議論(http://d.hatena.ne.jp/n-291/20070424#p2)を引用するまでもなく、
大森俊克さんの言葉(http://d.hatena.ne.jp/n-291/20070725#p9)を借りれば、
「はっきり言って時代遅れ」だと思っています。
http://d.hatena.ne.jp/n-291/20051229#p5
http://d.hatena.ne.jp/n-291/20060806#p4
http://d.hatena.ne.jp/n-291/20070729#p12
>>>再録(2007-05-03よりいくつか)
■oval『ovalprocess』ライナーノーツより
1)デジタルであるということは、つまるところ常に計算可能であるということである。
2)デジタルなテクノロジーに依拠した音楽においては、想像力やクリエイティヴィティ自体が、当のテクノロジーのヴァージョンやアップデイトにあらかじめ拘束されている。
3)従ってそこで、ある実践的な試みを「革新的」「実験的」であるとする表明は単なる過信であり、ナンセンスでしかない。※佐々木敦さんによるオヴァルのステートメントの要約
http://www.amazon.co.jp/dp/B00004TQNW
◇ 読み替え1
1)デジタルであるということは、つまるところ常に計算可能であるということである。
2)デジタルなテクノロジーに依拠した写真においては、想像力やクリエイティヴィティ自体が、当のテクノロジーのヴァージョンやアップデイトにあらかじめ拘束されている。
3)従ってそこで、ある実践的な試みを「革新的」「実験的」であるとする表明は単なる過信であり、ナンセンスでしかない。
◇ 読み替え2
1)ケミカルであるということは、つまるところ常に化学反応であるということである。
2)ケミカルなテクノロジーに依拠した写真においては、想像力やクリエイティヴィティ自体が、当のテクノロジーのヴァージョンやアップデイトにあらかじめ拘束されている。
3)従ってそこで、ある実践的な試みを「革新的」「実験的」であるとする表明は単なる過信であり、ナンセンスでしかない。
◇ ovalprocess tutorial
http://www.wecurious.com/work/ovalprocess/process.html
■音楽と制約(oval)論
http://www10.plala.or.jp/so_web/restriction.html
■コンピュータ・グラフィックス 半ば技術的な入門 フリードリッヒ・キットラー
http://www.ntticc.or.jp/pub/ic_mag/ic028/html/153.html
■「メディア・アートの政治学」植田憲司
http://www.iamas.ac.jp/~ueken02/thesis/
■If This is Media Theory, Then There's Nothing Here but Ignorance and Empty Talk.
なんかえらく古くさいハイパーメディア万歳論なんですけど。 山形浩生いちばんつまらないのが、この人にとってネットやコンピュータってのがすべて、空から勝手にふってくる代物でしかないってこと。理論的な位置づけ云々とか。いま、自分たちがその変化にいやおうなく荷担しているという意識(危機意識にせよ幸福感にせよ)は皆無で、第三者ぶった無意味なおしゃべりが得意げに展開されるだけ。自分がメディアや情報のありかたを変えられる可能性、その方法論なんか何も考えてない。
http://cruel.org/other/gutenberg.html
■デウス・エクス・マキナ - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%87%E3%82%A6%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%82%A8%E3%82%AF%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%9E%E3%82%AD%E3%83%8A
http://d.hatena.ne.jp/n-291/20100805#p3
>>>再録(http://d.hatena.ne.jp/n-291/20051229#p5 http://d.hatena.ne.jp/n-291/20070424#p2)+α
■田村俊介くんの日記(2005年9月のメモより)
田村俊介くんの2005-09-09の日記「デジタルカメラの登場はもはや過去であることを知る以前に、もはやデ」。
http://d.hatena.ne.jp/shunsuketamura/20050909
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そもそも、印刷所が80年代から
ドラムスキャナと画像処理システムを使っている以上、
私たちがふだん目にする写真(印刷物)のほとんどは
とっくの昔にデジタル写真なんじゃないのかな。。。
「デジタル/ケミカル」なんて言っている人のほとんどは、
それを自分のウリにしたいだけなんじゃないのかな。。。
と、穿った見方をしてみる土曜日の午後。
■“デジタル・テクノロジーはひょっとしたら
たんなる歴史の一段階にすぎないのではないか──このように問うことは僕にとってとても重要
だと思われるし、少しも憂鬱になる話ではないんだ。むしろそれは希望であって、それというの
も、仮にデジタル・テクノロジーが現在本当に卵の黄身[=最善策]だということにでもなれば、
世界の歴史は何らかの意味で終わりにきており、終わりが見えることになってしまうからね。ひ
ょっとしたら、中国人がこれからの150年間にアメリカ人よりももっと優れたコンピューター・
システムを開発するかもしれないし、それによってアメリカ帝国を──まだそんなものが存在す
るとしての話だが──転覆させるかもしれない。でも支配者の名前が多少変わるだけで、構造は
もはや変化しないことになるんだ。”(フリードリッヒ・キットラー)
フリードリヒ・キットラー×シュテファン・バンツ『キットラー対話 ルフトブリュッケ広場』より
※原著は1996年発刊
http://www.bk1.co.jp/product/1711959
http://www.amazon.co.jp/dp/4883030628
>>>軽佻浮薄(↑は↓です)
http://d.hatena.ne.jp/n-291/20060806#p4
>>>Saisさんの鑑賞記録「ポスト・デジグラフィ」展
http://d.hatena.ne.jp/n-291/20060915#p5
>>>「デジタルだからどうこうっていう時代じゃもうないからね」(某美術館キュレーター談)
http://d.hatena.ne.jp/n-291/20080426#p7