Übungsplatz〔練習場〕

福居伸宏 Nobuhiro Fukui https://fknb291.info/

初校戻し(2012年07月11日)+α

【コラム連載 第3回 オヴァル(Oval)=マーカス・ポップ(Markus Popp)】


矛盾とアンビヴァレンスを焦点とする奇妙な楕円(ルビ:オヴァル
――オヴァル=マーカス・ポップについての覚書


音楽生成の新しいアプローチ
「音楽」を英語にすると「music」。その語源はギリシャ語の「mousikh(ルビ:ムーシケー)」であり、「ミューズの女神たちが司るもの(学芸・技芸)」が本来の意味です。「音楽」という日本語の元をたどれば中国古代の儒教における六芸(ルビ:りくげい)にたどり着き、西欧の「music」「musik」「musique」と同様にそれが学・技・芸であったことがわかりますが、今日の「音楽」という言葉に対するイメージである「音を楽しむ」とは異なっているということを思うたびに、「写真(真を写す)」と「photograph(光の画、光の記録)」との意味の違いや、もともと日本語にはなかった「芸術」という言葉と「art」という言葉の概念的なズレと捩れ、つまり“日本的な状況”について考えてしまいます。
 とはいえ、音楽に話を戻すと、「music」はレコーディングという技術の発展によって後に産業化し、その言葉は西欧においてもすでに楽しむための音楽、すなわち「popular」や「pop」が頭に付く大衆的な音楽を指すのが一般的になっているのではないでしょうか。そうした産業化以後の音楽の世界にあっても、クラシックやいわゆる現代音楽といった、ある歴史的拘束性やセオリーに則った芸術音楽とは異なるアプローチで、新しい音楽の生成に取り組んでいるアーティストも存在します。


不確定性と意図的な破壊行為
 今回は、その中でも特異な存在感を示してきたオヴァル(Oval)ことマーカス・ポップ(Markus Popp)について記そうと思います。
 90年代に音楽の世界に新しい美学と方法論をもたらし、その挑発的な発言からさまざまな議論を巻き起こしてきたオヴァル。音楽家として著名になる以前から、メディア・アーティストとしてサウンドインスタレーションにも取り組んできたマーカス・ポップの音楽制作における手法=オヴァル・プロセスは独特のものです。
 簡単にまとめると、以下のようになります。

(1)市場に流通している既存のCDや恣意的に音声データを保存したCD-Rの盤面にフェルトペンで落書きする。
(2)それをプレイヤーで再生した際、ランダムに発生する音飛びや読み取りエラーを採集。
(3)この工程を繰り返すことで得られた音声データをハードディスクに大量にストック。
(4)保存しておいた音の断片を組み合わせて楽曲を構築。

 例えば通常の楽器が発する楽音とは異なる音色を得る方法としては、ジョン・ケージが考案したプリペアードという手法――ピアノであれば、内部の弦の間に物を挟んだり、弦の上に何かを載せたりすることで、調律されあらかじめ定められた音を変容させる――があります。一方、オヴァルの方法はプリペアードCDの再生=演奏によって不確定性を導入することで、音色の変容と、オートマティスムチャンス・オペレーション(古くはモーツァルトの「音楽のさいころ遊び」)とを、そこで同時に行うことが特徴だと言えるでしょう。
 こうしたプロセスから生じるデータのエラー、意図的なクラッシュが算出=産出する音、既存の価値体系に抵抗し介入するような音響を積極的に逆利用していくような方法は、後にグリッチ(glitch)と呼ばれる音楽ジャンルの隆盛へとつながっていきました。


2つの極を揺れ動くオヴァル
 この音声データの採集の段階では、CDプレイヤー自体はあくまでもテクノロジカルな正確さによって入力のシグナル/ノイズを判断し、出力を行う=音を奏でているのであって、その意味では素材となる音はそれを聴取する者にとっての正しさとは関係のない、人間的な美学の埒外にあるものです。しかし、そこで得られた楽音ならざる音の断片を、デジタル・プロセシングによって精緻に組み上げ、構成していく編集の段階では、“非人間的であるがゆえにむしろロマンティック”でさえある、そうした外部にとどまることはできず、人間的な価値判断が入らざるを得ないことも事実でしょう。
 このような採集と編集という2つの極――この2つを焦点とする奇妙な楕円(ルビ:オヴァル、しかもその焦点が絶えず揺れ動き、不定形のうごめきをみせている楕円(ルビ:オヴァル――それこそがマーカス・ポップの抱える矛盾とアンビヴァレンスであり、ケージとも異なる美学の源になっているように思います。
 実際、マーカス・ポップが作り出す音楽はというと、単にコンセプチュアルでアイデアどまりのものではなく、音楽的にも非常にフレッシュで洗練されており、メロディアスかつエモーショナルなものです。ゆえに、誰の耳にも新しいその音の響きから、彼の理論的思想的な局面での激しさ厳しさを感じ取ることは困難でしょう。
「誰もがオヴァルになれる」と創作における作者性を否定したり、メロディ、聴きやすさ、ポップさといったものがもたらす情緒的喚起力を“「デザイン的な要素」であり、非本質的である”として斥けたりと、物議を醸してきたオヴァルですが、その背景には、古典的な「music」でもなく、頭に「popular」「pop」が付く「music」でもない、彼独自の「music」への信頼、あるいは倫理のようなものがあるのではないでしょうか。


変わらぬ批評性と音楽への態度
 シンセサイザーによるテクノ・ミュージック、音を周波数に還元する池田亮司やカールステン・ニコライらのフリークエンシー・ミュージック、その他デジタル化以降の実験音響などに対して、痛烈な批判を浴びせかけてきたオヴァルですが、彼はそうした音楽を先端的革新的だと賛美するような風潮を、「テクノロジーに依拠している以上、その想像力や創造性は常に技術史的な発展の一段階に拘束されたものにすぎない、それを過信するのはナンセンスだ」というふうに論難してきました。
 こうした態度もまた、オヴァルの倫理に端を発しているものだと言えるでしょう。つまり、音楽がハード的にもソフト的にも飛躍的なデジタル化を遂げ、そこに産業的なマーケティング戦略が導入された90年代から2000年代にかけての状況だったからこそ、彼にとって「音楽的根拠」が感じられないもの(もちろんそこは意見が分かれるところでしょうが)を攻撃した、と。
 その後、9年間の長い沈黙を経て発表された近作『O』(2010年)と『OvalDNA』(2012年)。ここでオヴァルはかつてのコンセプトと手法を捨て、大いなる変貌を果たしたかのようにも語られますが、新旧の音楽的スケッチがジグザグに配された『OvalDNA』を慎重に聴けば明らかなように、その音への配慮とセンス、音楽への態度にそれほど変化があるようには思えません。
 自らすべての楽器を演奏し、素材を採集、その音をデジタル・プロセシングし緻密に編集――ということで、採集と編集という2つの極が彼を支えていることについては同じです。ただし、ここで異なるのが、その音楽がより色彩豊かでメロディアスになったことで、これまで以上にエモーショナルなサウンドになっているということです。
 さて、ここでオヴァル=マーカス・ポップは何をやろうとしているのでしょうか、その音楽への愛情あふれる音響の奥底で、すなわちコンセプチュアルな局面において――。近年の「pop music」の多くは、音圧や高音/低音の巧妙なコントロールによって、ますます鑑賞者=消費者の情動をそれと知らぬうちに特定の方向へと導くような傾向にあると思います(音楽における情動・情念の定型化? そうしたテンプレートの利用による工学的管理?)。
 虚ろなエモーションへのアディクトを企図する音楽産業に対して、オヴァルは未知の音楽体験による別種のエモーションを送り込むことで、批評的に介入しようとしているのではないか。そうした想像を頭に抱きつつ、次のアルバムの発表とウェブ上での新展開に期待したいと思います。


※コンテンポラリー・アート・マガジン『ファウンテン』第3号に掲載
https://www.facebook.com/fountain.mag
http://fountain.6.ql.bz/

      • -



>>>第1稿(2011年09月14日)

【コラム連載 第1回 映画『イグジット・スルー・ザ・ギフトショップ』】
バンクシーの介入(ルビ:インターベンション)
棘と機智に満ちたアンビバレントな爆弾

http://d.hatena.ne.jp/n-291/20120124#p2


>>>初校(2012年03月03日)

【コラム連載 第2回 エンリーケ・ビラ=マタス『ポータブル文学小史』】

平明な言葉が織り成す不可知の迷宮
──エンリーケ・ビラ=マタス『ポータブル文学小史』

http://d.hatena.ne.jp/n-291/20120502#p3