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福居伸宏 Nobuhiro Fukui https://fknb291.info/

曽根裕と西原みん:ロサンゼルス物語 - adrianのブログ(ART iT アートイット)

今回始めるにあたって第一回目は、2009年の私のよき日々について書いたブログです。アーティスト、曽根裕とアートライターの妻、西原みんのロサンゼルスでのインタビューをベースにした、「1990年代初期の日本の現代ポップアートの黄金期」(初出2009年12月22日)についてです。どうぞお楽しみください。


曽根裕と西原みん:ロサンゼルス物語

 ロスに住んでいない者にはわからないだろう。ニューヨーク、パリ、東京、あるいはサンフランシスコといった都市を期待してロスにやってくると、驚いてがっかりするかもしれないことを。街の中心部や、ここがロスといえる場所、またパッケージ旅行として、名所全てをうまく組み込むことが出来ないのだ。日本人アーティストの曽根裕は、青々とした緑の中に設置された白大理石のセットでロスの栄光ともいえるそれをうまく表現している(画像参照。上は10/405で、下はMOCA LAに展示された10/100。番号はもちろん高速道路の号線名)。曽根は、妻の西原みん(彼女は文筆家で90年代初期に東京ポップアート全盛期のちょっとした伝説だった)と共にロサンゼルスに住み、活動の拠点としている。それはある晴れた日のこと、私は西原をインタビューするために、South Pasadenaにある彼らの小さくて可愛い1920年代のバンガローに向かっていた。

 後に登場する椹木野衣松井みどりも、この期間に起こった事柄に関するアートの歴史的な話に終始する傾向がある。しかし、全てのネオポップアーティスト達の近くにいた文筆家の西原みんも、おそらくポップ、日本、国家主義セクシュアリティー、そして東京といった大きな思想が混在するカクテルが生まれた背後にいただろう。そしてそれは、後に「スーパーフラット」や「リトルボーイ」といったパッケージになり、「ネオ東京」に期待する西欧人向けの世界ツアーが行われたのだ。現在西原は、アートに関してではないが文筆業を続け、東京から遠く離れたロスで静かに暮らしながら、家庭を守っている。

 1986年、彼らは東京芸大の学生だった。村上隆、西原みん、小山登美夫、長谷川祐子、中村政人などを含む人達だ。野心的な学生達は皆、概念、思想、日本の芸術のための戦略などを探し求めたが「空虚」を感じていた。
「私達が集まった時、6ヶ月間を共にして、あちこちをドライブしたり、オープニングに行ったり、プランや戦略など、とにかく色んな事を話し合っていました。」
 日本のその当時のアートは、他の国と同じように、たいていがP.C. (政治的に正しい表現)であり、それはつまらない感じの「政治的」だった。彼らは「政治的」ではあったのだが、残留するアメリカ支配に対する不満以外に
「抗議する対象がなかったのです。」
 彼らは、ポストモダンアートの空虚だが完璧な生産体系を創り出した、ジェフ・クーンズを敬愛した。その他の森村泰昌や宮島達男といった、当時国際舞台に踊り出た日本の芸術家達は、どういうわけか比較できるようなコンセプトをもっていなかった。これは、アートの典型的な「日本の」問題だった。彼らは、彼らより少し前のアーティスト達に影響されていたのである。太郎千恵蔵は、既にニューヨークでのコンタクト先を確保し、日本のポップアートを販売する方法を見出していた。椿昇と中原浩大は、素晴らしい構想を練っていた。ヤノベケンジという大阪からの競争相手もいた。村上隆は、社会批判性の高いアートに従事し、彼のニューポップ構想を作り上げていた。この時は、未だ低迷時代のアーティストとしてニューヨークでの苦境を味わっていなかった(西原は1994年に彼を訪ねている)。ニューヨークに行く前の村上は、「おたく」を彼の作品と結びつけるというアイデアを拒否していたのだ。

 西原は暇があれば書き続けていた。当時の日本は、雑誌の黄金期であった。彼女は、アートのマニフェスト、批評、特集記事、そしてアート作品のためのプロジェクトなどを書いていた。長谷川祐子や宮島達男と一緒に、雑誌『アトリエ』に寄稿もした。東京の郊外出身の男性群と違い、彼女は下町である墨田区出身である。彼女の家族は、東京の古い下町文化に染まっていたのだが、彼女は限りなく変化を続ける新しい都市で育った。西原は、あちこちを旅し、アートについて書いた。1988年、彼女は画期的だったヴェネチア・ビエンナーレを訪れ、世界が日本の現代美術に眼を向けた瞬間に立ち合った。また、ドクメンタ8も見にいった。3,4年間にわたって、彼らグループは最初のショーの準備をしていた。この頃に小沢剛会田誠が、現れた。少し若い彼らは、独自のアイデアにあふれていた。中村と小沢は、60年代の前衛芸術グループである、ハイレッド・センターを彷彿させるかのようなザ・ギンブラートを計画したりした。ザ・ギンブラートでは、西原自身が参加アーティストで、銀座の路上に詩を書き、巡察に来た警察から逃げ回ったりした。村上は、日本の50、60年代や前衛芸術の伝統にはあまり興味を示さなかった。彼は、何か別のものを求めていたのだ。1992年、彼らは皆韓国へ行き、中村は西原の友人の韓国人女性と結婚した。

 村上隆と西原みんは、よく一緒に旅をした。1992年、彼らはドクメンタ9を訪れ、スコアカードを使って全てに評価をつけていた。彼らは、自分達の美術雑誌を作ろうとしており、村上はそのタイトルを『アートセックス』にするように主張していた。これが後に、かの有名な『RADIUM EGG』となった。短期的ではあったが、レントゲン藝術研究所から出た新鋭アーティストの特集や、椹木、長谷川、そして西原のアイデアを前面にだした雑誌である。いつも楽観的だった彼らは、常に展覧会のスペースを探し、90年代初期の突然のポストバブルの時期に、若い日本人であることに対して「空虚」も感じていたのだ。従来の銀座の貸し画廊から締め出された、悪名高い恵比寿のP-House(「暗黒街」スタイルの場所の象徴的な画廊の1つ)でパフォーマンスが行われたりした。椹木野衣や銀座の古美術商の息子である池内務は、いつも身近にいたのだ。彼らは大森にレントゲンスペースをオープンするように池内を説得した。

 おそらく、更に重要なのは、彼らが国際的な美術界の人物達と直接話をした最初の世代であったという事実だ。以前なら、南條史生といった「仲介人」が、この役を独り占めしていたのだ。小山登美夫は、直接他の国際的なギャラリスト達と交流するのに野心的かつ行動的だった。西原みんは、ジェイ・ジョプリング(White Cubeのオーナーであり、ダミアン・ハーストの相棒)と話した時のことを語ってくれた。それは、1992年に別の一匹狼的アートディーラーである白石正美が総合プロデュースしたNICAF のアートフェアであった。西原は、80年代後半に若い日本人アーティストが、ゴールドスミスの大学生達と同じように「Freeze」のシーンについて知っているとは思わなかった。しかし、そこにはYBA達との不気味なほどの類似点がみられ、ジョプリングはすぐに共通点を認識した。

 それは全て遠い昔のことだった。でも、この昔話に興奮を覚えるだろう。西原と別れた村上は、その後1994年のニューヨークでの苦境を乗り越え、彼の野心をDOB君やその他で全うした。長谷川祐子は、日本で最も重要な美術館のキュレーターとなり、小山登美夫は、最も重要なギャラリストとなった。そして中村政人は、最も影響力のある美術教育者の一人となった。彼らは皆、日本のポストバブル期の美術史の中に名を馳せ、今現在でも活躍している。

 私達が戻ってきた時に曽根裕も台所にやってきた。私はまだテイクアウトしたコーヒーを飲んでいた。曽根は、東京のアート界や、常に辛口の長谷川祐子との苦闘を笑って話した。彼は、2010年の終わりに何箇所かで個展を行う事が決まっていた。東京都現代美術館東京オペラシティアートギャラリー(曽根のリクエストでART-iTのブロガーである遠藤水城がキュレーターを務める)そしておそらくもう1つ別の場所での展覧会だ。同時に別の会場で展覧会を開催するのはちょっと多すぎるのだが、大きな話題になるだろう、と彼は言った。彼はまた、私に日本で起こっている事柄について、キュレーターと話すことを重要視しすぎないように、と忠告してくれた。
路上観察が一番おもしろいよ。」
 彼らは、息子の1人がどうやら漫画を出版しているらしいと話していたりするのだ。

 もう行かなくては。
「でも、彼女と話して正解だったよ。」
 と曽根は笑いながら大きな目をして言った。
「あの当時、彼女は本当にアーティストを作りだし、見出していたんだ。彼女が全てを可能にしたんだよ。」
 それは素晴らしい話だった。

http://www.art-it.asia/u/rhqiun/4PY926tRdDnazb3ITMWs/
エイドリアン・ファベルさん(Adrian Favell http://www.adrianfavell.com/)のブログ@ART iTより。

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>>>椹木野衣『美術になにが起こったか─1992‐2006』(国書刊行会
http://d.hatena.ne.jp/n-291/20061204#p10


>>>「ただし、ここで集中的に論ずるのは

後者のポップに限定される。ただたんに消費生活の「反映」でしかない
ようなポップ・アートならば、あらためて俎上に載せる必要は感じない
からだ。もしそれらについてなにか語るのならば、それら和製ポップの
イメージが、いかに「おいしい生活」を再生産するためのイデオロギー
として機能したかを、社会学的に「広告批評」すれば事足りるだろう。
戦後の日本の美術の貧困を正面から扱おうとするわたしの「暗い動機」
の対象などに当てられた日には、とんだ迷惑にちがいない。」
椹木野衣『日本・現代・美術』より
http://www.amazon.co.jp/dp/4104214019

http://d.hatena.ne.jp/n-291/20060328#p6


>>>中ザワヒデキ Nakazawa Hideki『現代美術史日本篇 Contemporary Art History: Japan』
http://d.hatena.ne.jp/n-291/20080603#p5

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◇ これからの展覧会 - 東京オペラシティアートギャラリー

曽根裕 展 世界彫刻/WORLD SCULPTURE(仮称)

2000年以来ロサンゼルスを拠点にして、さまざまな国際展に出品し、世界的に活躍を続ける曽根裕。ここ数年は、中国およびメキシコにも工房を設けて、そこで作品制作を行っています。中国では長い歴史を持つ石工の街・崇武で大理石や水晶を素材とした彫刻を制作する一方、メキシコのグアダラハラでは木材や自然繊維を素材とした彫刻を地元の職人たちとの共同作業で作り上げています。その一風変わった制作活動は、石や木という自然の素材を使用し、長年培われてきた職人の技術を現代に蘇らせながら、彫刻という行為の人間的な本質に迫ろうとするものです。
本展では、移動すること、進行中であること、混沌としていること ─ この3つをテーマに制作を続ける曽根裕の過去・現在・未来を、最新作の彫刻作品を中心に紹介します。幻に終わった全長約30メートルの巨大な野外プロジェクト《雪豹》のプロトタイプなど、エコロジーに対する独自の視点も含め、彫刻家・曽根裕の全貌をご覧頂きます。

http://www.operacity.jp/ag/exh/index_sch.php
2011年1月15(土)〜3月27日(日)。


◇ 橋本聡個展/ロッカールーム/曽根裕個展 - 遠藤水城ART iT アートイット)
http://www.art-it.asia/u/ab_endom/5uNhgUHdMCf2BGnFyJA6


>>>曽根裕インタヴュー − ミュンスター彫刻プロジェクト1997 (村田真)- nmp (artscape)
http://d.hatena.ne.jp/n-291/20080214#p5


◇ 曽根裕展ーダブル・リバー島への旅 - ART遊覧
http://www.art-yuran.jp/2002/07/post_82.html


◇ YUTAKA SONE - Like Looking for Snow Leopard - Kunsthalle Bern
http://www.kunsthalle-bern.ch/en/agenda/exhibition.php?exhibition=4
http://www.kunsthalle-bern.ch/de/

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◇ Yutaka Sone - David Zwirner

January 22 to May 2, 2010  Animism (group show), Extra City Kunsthal Antwerpen and Museum voor Hedendaagse Kunst Antwerpen, Antwerp, Belgium [travels to Kunsthalle Bern, Bern, Switzerland]


December 2010 to February 2011  Yutaka Sone: Snow Christmas 2010, Maison Hermès Le Forum, Tokyo, Japan


January 15 to March 25, 2011  Yutaka Sone, Tokyo City Opera Art Gallery, Tokyo, Japan

http://www.davidzwirner.com/artists/20/schedule.htm
http://www.davidzwirner.com/artists/20/index.htm


◇ YUTAKA SONE - GALLERY SIDE 2
http://www.galleryside2.net/artist/sone/index.php