Übungsplatz〔練習場〕

福居伸宏 Nobuhiro Fukui https://fknb291.info/

「アステリズム」の制作に関連して

◇ 武満 徹作品と「日本的な音楽」との関係についての一考察 濱本恵康 - 広島大学大学院教育学研究科紀要

 琵琶と尺八とオーケストラによる二重協奏曲のような形をとり,オーケストラと尺八の響きの溶け合い,琵琶とピッチカートの対比,また琵琶と尺八による独奏部分は,あくまで;も背景的なオーケストラの役割と,異質な音響空間を作り上げている。また,「ステップス」という言葉から,番号づけられた11の部分が箏曲の段のような意味づけになっているようである。琵琶奏者の鶴田錦史は,この曲の初演にあたり楽器の一部を改良まですることとなり,邦楽の方面にも多大な意識改革を迫った作品となっている。
 この曲は,邦楽家が洋風の旋律や形式を借りてつくる「創作邦楽」,また,50年代まであった日本的音楽素材,例えば民謡のようなものを,西洋音楽の形式にのせる「日本主義」,あるいは「民族主義」のような姿勢でもない。このことは,数ある邦楽器の中から箏でも三味線でもなく,特に尺八と琵琶を選んだという事実からも説明できる。後に,武満自身が次のように述べている。「二つの文化を融合させるという考えを捨て,ただ単純にそのまま対置することにした。違いは溶け合わせずに残すことにした」と。そしてこれらの試みは,大成功を成し得たといえるが,疑問も残るのである。つまり,新しい時間性と音色を求めていくだけであれば,あえて邦楽器にこだわる必要は無かったのではないかと推察できるからである。また,高橋による『アステリズム』の演奏や,タッシ5)の『カトレーン』の演奏スタイルなどからも十分に理解することができる。このことからも分かるように,書法と演奏の両面によって新しい音響空間を作り上げていくのであれば,なにも邦楽器に頼らなくても,西洋の楽器によってもその変質や拡大により可能であったはずであろう。
 また,『ノヴェンバー・ステップス』の6年後に,アーサー・ミラー6)の戯曲に想を得た『秋』を作曲しているが,この作品では,オーケストラは邦楽器に拮抗する存在として扱われている。しかし,武満はこの作品を最後に,邦楽器を使った一連の作曲をやめて,再び西洋に目を向けている。そして,次のように述べている。「僕としては,日本を相対化してみたいということが常にあって,そのためにはやはり西洋の楽器を使いたい。西洋の楽器は,普遍性をかちうるためには, 便利なんです。そうしてくると,今度は,西洋の楽器でどういう風に東洋的なものを,自分の音楽を書けるかという問題がでてくるわけで...」と。


おわりに
 以上の考察から得た結論を,若干の提言とともに以下に記しておく。武満という作曲家がどうしてこれほどまでにアメリカを中心として,ヨーロッパ各国から注目をされてきたのであろうか。そこにはやはり,武満の創作原理が,同じ西洋楽器を使っても西洋的なものとは完全に異なる独創的な構造を持っているからであると考えざるを得ない。論理的な構造のみで成りうるのではなく,また,西洋音楽の伝統に従って一つの主題から出発するのではなく,感性的な音から出発するという,かなり違った形の関わり方で繋がっていくスタイルをとっているからであろう。終始に向かって転回し,完全に終了した形を取るのではなく,また,明確な関係を持たないモチーフやハーモニーが,常に並行して転回していく。それが奇妙とも,またアンバランスとも感じられる均衡を保ちながら流れていくスタイルは,やはり日本の文化の根底に存在するものの様にとらえることができるのではなかろうか。
 そして正統的な西洋音楽を,音階の中における,音の高低の違いにおける楽音の構造体,と簡単に定義するとしたならば,尺八や琵琶の音がもつ独特の時間性と音色は,明らかにこれに対立するのである。琵琶や尺八の音を西洋楽器のように扱おうとしても,それらの音は非常に複雑であり,どうにも変化させ難い事実がある。現代の若手作曲家達も,日本の伝統楽器を他の西洋楽器とほとんど同じように使いこなしていると思えるが,『ノヴェンバー・ステップス』が作曲され た1967年当時,武満の起こした革命の意味は現在の場合の比ではないであろう。しかし重要なことは,これが決して,日本への回帰ではなかったことである。そして,その複雑である音そのものを自然に受け入れることのできる我々日本人の感受性は,武満の使った琵琶や尺八の音は勿論のこと,筆者が前々稿で述べた, 聴取することのできない「間」さえも躊躇することなく受け入れることができたのである。
 武満の音楽は,明らかにヨーロッパの美しい響きを感じさせる。またそこには,日本の伝統文化から抽出された抽象的でコンセプチュアルなアイディアが隅々に現れ,ヨーロッパと日本の二重のディスタンスを兼ね備えた,もう一つ別のユニバーサルな位置にある存在となっている,というベきではなかろうか。
 以上の結果をさらに明確にしていくために,次稿では,現代邦楽における,邦楽演奏家自身が作曲している作品と,武満の邦楽器を使った作品との比較研究,さらに,武満と同時代の作曲家達の邦楽器を使った作品と比較研究していく必要がある。

http://ir.lib.hiroshima-u.ac.jp/metadb/up/kiyo/AA11618725/AA11618725_55_425.pdf
http://porta.ndl.go.jp/service/servlet/Result_Detail?meta_item_no=I002128304&meta_repository_no=R000000004


武満徹と1960年代 ― 《ノヴェンバー・ステップス》(1967)に至る変遷と時代状況 ― 楢崎洋子 - 東京芸術大学音楽学部紀要
http://www.lib.geidai.ac.jp/MBULL/30Narazaki.pdf


武満徹 アステリズム - 三茶でチャチャチャ

ピアノとオーケストラのためのアステリズム(1968)の55小節目。こんな精緻なサウンドが彼の頭の中にどのように鳴っていたのだろうか?

http://blogs.yahoo.co.jp/tetsu52iwa/57882057.html


◇ 懐かしの「ノヴェンバー・ステップス」 - クラシック音楽の小窓−第2楽章

それに対して、「アステリズム」は、西洋音楽の伝統を体現しているピアノという楽器と管弦楽のために作られているため、両者は融合して独自の「タケミツ・ワールド」を形成している。衝撃音が多く、ピアノも打楽器のような弾き方の部分があるが、後の「リヴァラン(riverrun, 1984年)」を予感させるような涼しげな箇所もある。後に「水」のイメージとして現われるものが、ここでは「星」同士のせめぎ合いとして現われる。

http://blog.zaq.ne.jp/Kazemachi2/article/115/


◇ Takemitsu 14 Asterism.mp3 Download For Free - AGP24
ttp://abmp3.com/download/3432508-takemitsu-14-asterism.html
断然アルバム↓を購入することをオススメします。


◇ 『武満徹:ノヴェンバー・ステップス』

作曲:武満徹
指揮:小澤征爾
演奏:トロント交響楽団 鶴田錦史 高橋悠治 横山勝也

1. ノヴェンバー・ステップス
2. アステリズム〜ピアノと管弦楽のための
3. グリーン
4. 弦楽のためのレクイエム
5. 地平線のドーリア

〈アステリズム。名詞:1.〔天文学用語〕a.星群。B.星座。2.〔結晶学用語〕光の反射をうけると、星状の光彩をしめすある種の礦物の結晶に見られる固有性。(後略)〉
※ライナーノーツより抜粋

http://www.amazon.co.jp/dp/B000V2RW7Q


◇ アステリズム (曖昧さ回避) - Wikipedia

アステリズム

  • アステリズム - 星群。恒星の並びのこと。
  • アステリズム (記号) - 印刷記号のひとつ。「⁂」で表される。
  • アステリズム (武満徹) - 武満徹が作曲した、ピアノと管弦楽のための作品。

アステリズム効果

  • 宝石の星状光のこと。スター効果を参照。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%B9%E3%83%86%E3%83%AA%E3%82%BA%E3%83%A0_%28%E6%9B%96%E6%98%A7%E3%81%95%E5%9B%9E%E9%81%BF%29


Asterism (typography) - Wikipedia, the free encyclopedia
http://bit.ly/Pgnow


代謝建築論 か・かた・かたち 著:菊竹清訓 - ikebowの資料室

コンピュータが発達して来て、今まで処理出来なかった問題が処理出来るようになって来た今日、そしてリノベーション産業が少しずつ市場を広げていっている今日。本書はある意味では教師として、またある意味では反面教師として、一度は読む価値を持っている。

本文の中で、機能を捨てた空間こそ、もっとも良く機能を発見できる空間である。と書かれてあり、さらにそのような空間を機能啓次の媒体として奨励している。それは化学変化における触媒の存在のように、生活に創造性をもたらす仕組みとして考えている。また、体内での細胞やタンパク質がもたらす化学変化を起すシステムと同様に、建築のシステムにも主従関係が存在すべきであるとし、ネットワーク的な視点からシステムを考える可能性を示唆している。それにか・かた・かたちの物理学的時間を含んだ流れを被せてくるのだから、その視点の広さに驚かされる。

認識のプロセスは<かたち>→<かた>→<か>とすすんだ末に、それは再び<かたち>のより深い認識に他ならないというように環となり、同じように、実践のプロセスにおいて、<か>→<かた>→<かたち>にたちもどって、より高次の実践となると言う、三段階、は直線的ではなしに循環する環になっていると考えられる。すなわち三角構造である。

p.15


<かたち>の奥に<かた>があり、さらにその奥に<か>がある。つまり中心に<か>があって、そのまわりを<た>がとりまき、さらにその外周を<ち>が取り巻いているという形である。そして中心は拡大して波紋のように広がり、つぎつぎに<かたち>のなかから新たな<か>が生まれ、それは<かた>となり、新しい<かたち>へと絶えざる運動をくりひろげる。そういう波紋のような運動を内在するのが<かたち>の構造である。

p.16

http://d.hatena.ne.jp/ikebow/20100121


◇ か・かた・かたち 代謝建築論 菊竹清訓 - 教えて! 住宅 豆知識

か   = 構想的段階 
かた  = 技術的段階
かたち = 形態的段階

これらで作られる三角形を行き来することが、デザインの認識であり
設計の方法である、要約しますとこんな感じでしょうか。

http://jyuutakujyuutaku.blog104.fc2.com/blog-entry-121.html


パターン認識としての<かたち・かた・か> - 文化力で発想しよう!

「<かたち>についてのこのような三段階を次に示せば、


 感 覚 → 理 解 → 思 考
  (1)    (2)     (3)
 現 象 → 法則性 → 原 理


となり、<かたち>の認識プロセスは、このような段階を経て、三段階ですすむと言える。
 言い換えれば、
<かたち>を現象として感覚する段階
 (筆者注=かたちを認識する段階)から、
<かたち>のなかにある普遍的技術あるいは法則性を理解する第二の段階
 (筆者注=かたを認識する段階)に、そして最後に
<かたち>の原理ともいうべき本質的問題をあつかう第三の段階
 (筆者注=かを認識する段階)へ
 という三段階である」

http://cds190.exblog.jp/4643989/


◇ tetsuyakimura_weblog 菊竹清訓氏の「代謝建築論」 - 建築の眼 JAZZの耳

菊竹さん といえば 「か・かた・かたち」 であり、「メタボリズム」 ですが、この本を読み返して 「空間は機能をすてる」 というテーゼもとても興味深く読みました。

それにしてもこの本に納められた言説は1961年から1965年にかけて発表されたもの、氏が30代半ばに執筆したものです。菊竹さんに続く年代の磯崎新黒川紀章などといい、この当時の状況を振り返って見ますと皆様物凄く早熟な思考であり作品群であったのだと、改めて驚いてしまいます。

http://tetsuyakimura.blog31.fc2.com/blog-entry-174.html


代謝建築論―か・かた・かたち (1969年): 菊竹 清訓: 本 - Amazon.co.jp

 <空間は機能をすてる>ことによって人間を開放し、自由を獲得し、精神の高貴を讃え、人間の創造を蓄積し、よく多様な文化の胎盤とすることができるのではないか。(抜粋)


 形態は機能を媒介とするにすぎない。機能を媒体として生まれた形態も、形態によって機能を失い、ただの空間に帰っていく。自然にかえすのである。(抜粋)


 その要点は以下のように解釈できる。


 時間の経過によって機能は変化しつづけ、極端な場合機能は失われる(廃墟など)。しかしながら例え機能が失われたとしても、形態は主張し続ける。そして、機能をすてた空間こそ、もっともよく機能を発見できる空間であり、空間というのは機能を発見しうるような空間でなければならない。なぜなら、生活こそ機能の更新であり、生活主体としての人間はつねに機能を選択し、創造するからである。


 そしていよいよ本題の「か・かた・かたち」論へ。著者によるとこの三段階方法論は武谷三男の「弁証法の諸問題」に負うところが多い。ここでは認識のプロセス(かたち→かた→か)と実践のプロセス(か→かた→かたち)の三段階を想定し、単なる「環」ではなく立体的な「ラセン構造」を構成すると述べる。


 <かたち>の認識は、一般に感覚の段階から理解の段階へ、そして思考の段階へと、三つの段階を経て深められるようにわたくしには思われる。認識の三段階論である。(抜粋)


 か:思考/原理/本質論的段階/構想
 かた:理解/知識/法則性/相互関係/体系/実体論的段階/技術
 かたち:感覚/現象/現象論的段階/形態


 さらに、人間生活・空間・機能との係わりを示す「設計の三段階構造」を提示し、理論と実践の融合を図ろうとしている。


 また具体的に、日本建築の<かた>を出雲大社に見出し、近代建築で<かた>を示し得ている事例としてミース「ファンズワース邸」、コルビュジェ「スイス館」、丹下「旧東京都庁舎」を挙げているのも興味深い。特に「伊勢神宮」「桂離宮」ではなく「出雲大社本殿」をわが国最初の空間の<かた>としているのは、明らかに意識的である。そこでは「柱」と「床」に注目し、前者を「空間に場を与えるもの」、後者を「空間を規定するもの」と指摘する。

http://www.amazon.co.jp/dp/B000JA36SO