Übungsplatz〔練習場〕

福居伸宏 Nobuhiro Fukui https://fknb291.info/

ジャネット・クレイニャック『リクリット・ティラバーニャの義務』 - journal

Janet Kraynak, “Rirkrit Tiravanija’s Liability,” Anna Dezeuse ed., The ‘Do-it-Yourself’ Artwork: Participation from Fluxus to New Media, Manchester University Press, 2010. pp.165-184
初出はDocuments, 13(autumn 1998), pp.26-40
クレア・ビショップの「敵対と関係性の美学」でちょっとだけ言及されていた論文。内容としては、ハル・フォスターの「民族誌家としてのアーティスト」の一部の議論(「他者」という幻想を原理にして動くアイデンティティ・ポリティクス批判)を、モースの『贈与論』の話やブルデューの「象徴資本」を参照点に、ティラヴァーニャの作品に接続するような感じか。
中心となるのは、返礼の義務を伴わない完全な贈与は存在しない、という「贈与のアポリア」(デリダ)。にも関わらず、「完全な贈与」は幻想というかたちで蔓延っており、ティラヴァーニャの作品の受容はまさにそうした幻想によって支えられている。実のところ、贈与は、送り手の社会的地位や威信といったもの(クレイニャクはそれを「象徴資本」(ブルデュー)に結びつける)を循環させる、別種の経済活動であり、後期資本主義社会を駆動しているのはまさしくこの贈与型の象徴資本の経済である。その例としてクレイニャックが挙げるのは、企業による美術館等への寄付だとか、もっと卑近な例では注釈中でネーミング・ライツを挙げている。
だとすれば、ティラヴァーニャの作品を「完全な贈与」として素朴に受け止めてしまうことは、後期資本主義社会の原理そのものを肯定してしまうことになりかねない。むしろ、ティラヴァーニャの作品は、こうした「贈与のアポリア」をあからさまにする装置として批判的な機能を持っていると考えられるとも主張するのだが、果たしてそれが本当に批判であるのか、あるいは贈与という幻想を無批判に受け入れてしまっているのか、判断することは極めて困難であると閉じられる。
『関係性の美学』はまさしく、この論文で批判されているような論理によって駆動しているように思える。展覧会の場を「社会的な間隙」と見なして、資本主義社会の内部に穿たれた穴として芸術を特権視する点において。ただ、芸術もまた資本主義の論理の内部でしか働きえず、そこに身を晒し続けなければならないというブリオーの主張は、そう単純なものでもない気がする。
この章は当初1997年から1998年にかけて執筆され、「ドキュメンツ」誌の1998年の秋号に掲載された。この少部数の雑誌は、私の学部での同僚や友人たちのグループで立ち上げたもので、参加していたのは、クリス・フーヴァー、ミウォン・クウォン、ジェームス・マルコヴィッツ、ヘレン・モールズワース、そしてマーガレット・サンデルだった。執筆した当時、参加型の実践は、現代美術業界のレーダー上にちょうど現れ始めていた。「ドキュメンツ」は、非アカデミックかつ学際的な文脈のなかで、真剣な批評を行うためのフォーラムを提供するという目的を持った雑誌で、こうした新しい実践の受容が大部分批評的でなかったように見えていた私が、それについて探求するのに完璧な場所だった。元の文章のアイデアが浮かんだのは、リクリット・ティラヴァーニャの、いまでは有名となった、ニューヨークの303ギャラリーで開かれた1992年の展覧会、《無題(自由)》が発表されたのと同じ時期だった。私の目には、ティラヴァーニャの作品がもっぱら祝福のような、非歴史的な言葉によって語られていたように見えた。過去の社会参画型芸術に関する言及も、〔ティラヴァーニャの〕作品の受容がつくりだした批評的な主張へ影響を当然与えていたはずの、1990年代において変容した資本主義の情況についての言及もなかった。
「ドキュメンツ」はながいあいだ絶版になっており、発表からの数年で、私がこの文章で主張しようとした問題については、他の書き手が生産的に発展させ、改めて理論化してきた(たとえば、この本に再録されている、ミウォン・クウォンの「Exchange rate: on obligation and reviprocity in some art of the 1960s and after」とクレア・ビショップの「敵対と関係性の美学」がその例だ)。それらは、こうした関心が高まっている最中であること、これらの重要な諸問題について、より多くの調査が必要とされていることを示している。私は、自分の研究のなかで、この文章でまとめた主題のいくつかについての探求を引き継いできた。新しい読者や解釈者とこれらのアイデアを共有する機会を与えてくれたアンナ・ドゥズーズに、感謝したい。

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