Übungsplatz〔練習場〕

福居伸宏 Nobuhiro Fukui https://fknb291.info/

平木収『写真のこころ』(平凡社)

未刊  四六判  256頁  2010.09
ISBN978-4-582-23118-2 C0072 NDC分類番号 740.21


いま、写真はどこへ向かっているのか。何よりも写真家たちの活動を愛し、写真展を批評しつづけ、惜しまれつつ早逝した評論家・平木収。彼の言葉は写真=メディア論の新しい地平を切り拓く!

http://www.heibonsha.co.jp/catalogue/exec/viewer.cgi?page=browse&code=231018
http://www.amazon.co.jp/dp/4582231187
アマゾンでは9月25日発売になっています。


◇ yoichi sato / 佐藤洋一: 本日は、平木収「写真のこころ」(平凡社/刊行予定)、 ... - Twitter

本日は、平木収「写真のこころ」(平凡社/刊行予定)、校了前の最終段階まで参りました。

http://twitter.com/41satoyo/status/22264592209


>>>『インディペンデント・フォトグラファーズ・イン・ジャパン 1976‐83』金子隆一島尾伸三・永井宏 編

「PUT」「プリズム」「CAMP」の差異は、「PUT」のこの各地への拡散と、交流という動きによって、よりはっきりしていった。「プリズム」は、写真のテーマを、つまり作品としてのテーマを広げていったし、その様な写真家がかかわりを持ち、写真評論の新たなる広がりをも生んだ。「CAMP」は、その一面だけではあるが、創作と作家の生き様をトータルに見せようとする写真家の出現を見せた。そして「PUT」は、クモの子が散るように、あるいは種がまかれるようにして散っていった。つまり、彼らはメディアについて新しい展開を試み、そして、それはコミュニケーション論として幾つにも分岐していったと考えられる。「プリズム」のメンバーであった平木収をして、田口芳正に向かって「PUT」はオプチミステック(楽天的)で、CAMPは生き様フォトだ(1979年ごろの話)」と言わしめたのも、あるいは当然であったといえよう。
この様な視野を、当時はなかなか得られるものではなかった。当事者たちでさえ、事態の推移は手さぐり状態であったし、全てが流動的であると感じられている時代でもあったからである。それには社会的危機もともなっていた。だからこそ、やみくもなまでに多くのことが成しえたともいえよう。
この“ひも付きではない”ということは、彼らを表現上の制約から自由にしてはいたが、経済上での行きづまりをも約束していた。経営上の赤字を誰が補てんするのかという問題は、ときとして写真の問題よりは重要な問題であったにちがいない。

(広く開かれていた“場” PUT 1976─79 [P94-95]より)

http://d.hatena.ne.jp/n-291/20080308#p5


※過去の平木収さん関連
http://d.hatena.ne.jp/n-291/searchdiary?word=%CA%BF%CC%DA