1973(昭和48)年
『なぜ、植物図鑑か 中平卓馬映像論集』(晶文社、2月)刊行。エンツェンスベルガー来日記念シンポジウムに出席。睡眠薬常用のため、知覚異常の症状を起こし、ひと月近く入院。逗子海岸でそれまでの作品のネガの大半を焼却する。『季刊デザイン』夏号に「植物図鑑」発表。7月、那覇市で開かれた松永優裁判 (1971年11月に沖縄返還協定批准に反対するゼネストで警官が死亡、読売新聞に載った現場写真を証拠に一人の青年が逮捕された事件の裁判) の第8回公判に参加するため初めて沖縄を訪れ、これを機に高嶺朝誠(後の詩人、高良勉)と知り合う。映画「赤い鳥逃げた?」(藤田敏八監督)の安田南が歌う主題歌のレコードジャケットを撮影。『アサヒカメラ』11月号に「ユジェーヌ・アッジェ 都市への視線あるいは都市からの視線」を執筆。逗子の池子弾薬倉庫反対の市民運動に参加。
1974(昭和49)年
『近代建築』の表紙写真を1年間担当。多木浩二らの企画による「写真ついての写真」展(シミズ画廊、4〜5月)に、沖縄の空を撮った《青空》出品。『朝日ジャーナル』のシリーズ「解体列島」に写真と文章を寄稿。共同通信社横浜支局の記者、辺見秀逸(後の作家、辺見庸)と知り合う。
1975(昭和49)年
『アサヒカメラ』に多木浩二、鈴木志郎康とともに「新説・写真百科」を1年連載。同1月号に「都市・陥穽」発表。同7月号に「沈黙の中にうずくまる事物 ウォーカー・エバンズにふれて」を執筆。「ワークショップ写真学校」(1974年設立)に講師として参加。
1976(昭和49)年
『アサヒカメラ』に篠山紀信の写真と中平の文章による「決闘写真論」を1年連載。同誌2月号に「奄美 波と墓と花、そして太陽」発表。ピエール=アラン・ユベールらの企画により、フランス、マルセーユの画廊「ADDA」で武藤一夫、大石一義と3人展開催、《デカラージュ(Décalage)》と題した展覧会を行う。『プレイボーイ 日本版』の連載企画「町よ!」(7・11月号)で中上健次とともに、香港、シンガポールなどを訪れる。
1977(昭和49)年
『アサヒカメラ』の座談会「話題の写真をめぐって」のレギュラーとなる(1〜6月号)。同3月号に「国境・吐噶喇列島 無人化する島々」発表。『プレイボーイ 日本版』の取材で中上健次とともにスペイン、モロッコを旅行(5月)。7月、友人の美術家ピエール=アラン・ユベールを日本に招き、ときわ画廊で個展を企画(9月)。篠山紀信との共著『決闘写真論』(朝日新聞社、9月)刊行。9月10日夜、ユベールの送別会を逗子の自宅で開き、11日午前3時頃、酔いつぶれて昏睡、翌朝病院に担ぎ込まれる。しばらくして意識は回復するが、記憶等に障害が残る。12月に退院、横浜の実家に移る。
展覧会図録『中平卓馬展 原点復帰―横浜』所収「中平卓馬年譜」八角聡仁編より
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