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福居伸宏 Nobuhiro Fukui https://fknb291.info/

キヤノン:写真新世紀|写真新世紀展2001 開催報告

第10回 写真新世紀展2001 公開審査会開催報告

公開審査会 2001年12月8日(土)

東京・青山モーダポリティカにて写真新世紀展2001を開催。 初日8日には、審査員 荒木経惟氏、飯沢耕太郎氏、南條史生氏、木村恒久氏、都築響一氏による公開審査が行われました。 第23回、第24回公募優秀賞受賞者が、審査員と来場者の前でプレゼンテーションし、作品についてや、写真に ついての熱い思いを披露してくれました。 その後の審査の結果、300人以上の来場者が見守るなか、特別賞に新沢ももさんと中西博之さんが選ばれました。

第24回 審査総評

→荒木 経惟 Nobuyoshi Araki

今回の応募作品は今後の動向を占うものになるんじゃないかな。なんせ新世紀ですからね。自分の感性を発見して生き生きしなくっちゃいけません。写真を見て滅入るというのか、しけた気分になるのはイヤですね。写真を撮ることで自分の感性や感情が自分の何かを発見してくれる。だからどんどん写真がおもしろくなっていくんですよ。言葉には出せない魅力があります。そうなってきたというのは、かなりイイ線いってますね。自分のスタイルがある。誰になんと言われようが私はこれで行くという元気です。現実は小説より奇なりといいますが、本当に凄いアートがありますよ。タイトルも凝っていて、みんな詩心が出てるのかなぁ、なかなか文学しています。


→飯沢 耕太郎 Kotaro Iizawa

写真新世紀」の出品作品の中によく見られる傾向として、「ライフ人生」、「私生活」を日記のように綴る作品が目立つ。生と死が交錯するような、そのイメージの連鎖は強く心を揺さぶられるものが多い。ただ、同じ様な写真が並ぶと言葉はあまりよくないかもしれないが、やや食傷気味になる。よほどの工夫、あるいは力業が必要かもしれない。もちろん、こういった主題に挑戦するのはいいことなのだが。


→南條 史生 Fumio Nanjo

なんかますます数が増えるなあ、と言う感じです。ひとりひとりが出品する作品ももはや一点だけで出品なんていう人はいない。相当の作品数で、その狙いというか、背景の文脈を見せようとしている。それはいいことだと思う。なぜなら審査する方も、その作品が偶然できたものでなく、意図を持って作られたものだということがはっきりつかめるからだ。作品の雰囲気は、以前よりも、多様になってきたような気がする。私生活と裸を主題にしたものが以前は多かったが、それがもっと幅広い展開になっているような気がする。全体にテクニックは上がっている。一枚一枚のプリントも丁寧で、きめ細かい。アルバムにしても、悪趣味なものや、素人臭い作り物は減ってきて、きわめてプロフェッショナルな作りのものが目に付くようになった。プレゼンテーションとして、人に見せるきちんとしたものになっている。主題は、相変わらず自分と自分の生活をテーマにしたものが多いが、そうした生活の中にいかにドラマを読みとるか、その目が大事なのだ。一方で、ある種のコンセプチュアルなアプローチも増えている。一つの視点で、継続的に世界を切り取ってみる、そんな態度が明快なシリーズの成立につながる。その視点に含蓄があってさまざまに展開可能であれば、それこそ意味深い方法論を生み出したということになるだろう。審査は私にとって、以前よりももっとエキサイティングなイベントになりつつある。


→都築 響一 Kyoichi Tsuzuki

人は、君の日常生活なんかに興味はないのだ。君の自分探しの旅や、かわいい彼女や、バアさんの臨終や、まして君の結婚式なんて誰も見たくないのだ。そういう人たちをムリヤリにでも自分の写真世界へと引きずり込むには、なにが必要なのか。それをもう少し考えてほしい。たとえば、それは卓越した技術であったり、飛びぬけた対象物であったり、思いの純度の深さであったりする。プロであるとは、そういうことだ。今日はたくさんの写真を見たが、正直言ってなんだか椅子に縛り付けられたまま、耳元でミツル(326)の詩を延々聞かされているような、イヤな気分になる時間が多かった。とにかく突き詰めていくこと。これ以上ないという地点まで。説得力はそこからしか生まれない。

http://web.canon.jp/scsa/newcosmos/gallery/2001/report/index.html
都築響一さんのコメントが興味深いです。
あと、南條史生さんのコメントに注目。
つまり逆に〈2001年以前はそうではなかった〉ということがわかります。