Übungsplatz〔練習場〕

福居伸宏 Nobuhiro Fukui https://fknb291.info/

再録(http://d.hatena.ne.jp/n-291/20110527#p6)

■林田新さん(id:Arata)のツイッターよりティエリー・ド・デューヴ「Time Exposure and Snapshot: the Photograph as Paradox」と被災地の写真について
◇ HAYASHIDA Arata (arata1002) - Twitter

1.今、写真洗浄の流れで話題にしていたのはこの論文。Thierry de Duve, “Time Exposure and Snapshot: The Photograph as Paradox,” October, no. 5, 1978

2.ド・デューヴがこの論文で議論しているのは、写真を知覚するのには二つのモードがあるということ。一つは写真を出来事として見ること、もう一つは画像として見ること。

3.前者を、写真を「指標(現実を指し示すもの)」として見ること、後者を、写真をもはや過ぎ去ってしまった過去の痕跡として見るということと言い換えても良い。

4.写真洗浄は恐らく後者の観点から考えることができる。あれらの写真群が僕達にある種の情動を引き起こすのは、そこに写っている人々が亡くなってしまった(かもしれない)ということだけではなく、そこに写る様々な「普通の日常」がもはや失われてしまったということを知っているから。

5.ド・デューヴの言葉を借りれば、その写真を見る観者の意識は、その写真が撮影された特定の時間・空間ではなく、もはや失われた指示対象に関わるあらゆる瞬間を想像的に思い描く。

6.集積された写真群が見る者の心を動かすのは、その圧倒的な量がそのまま失われた日常を喚起し、かつてあったけれどももはやない過去の様々な時間を見る者に圧倒的に想起させるから。

7.その時、写真と現実との関係は代替的関係にある。被災地から発見された写真群は、ある意味でかつてあった日常の代替物として作用する。かつてあった日常の「形見」。

8.それらの写真が大切に扱われるは、写真が、代替物として作用することで、失われた日常に向けられていた情動がそこから退き、代替的対象としての写真へと向けられることを可能にするから。フロイトが喪の過程と呼んだ事態。

9.その意味で写真洗浄とは津波に飲まれ泥にまみれ失われてしまったかつての日常の代替物を洗浄することあり、それを通じて、失われた日常に向けられていた情動が十分にそれら代替物としての写真を満たしていく。

10.写真洗浄は、写真にこびりついた泥を洗い流すだけでなく、失われたものに向けられていた情動の行き場の無い淀みを洗い流す。

以上。ちなみに、ド・デューブの議論はもっと緻密です。

こうした写真の話というのは、バッチェン『時の宙づり』とも響き合うところ。もちろんバルト『明るい部屋』とも。けれども、今回僕が圧倒されてしまったのはやっぱりその写真の量。

あれら個々の写真が換喩的に引き起こす様々な時間に圧倒されてしまった。

津波はあれだけの数の写真を、ある種の「遺影」にしてしまったこと。そしてその「遺影」すらも泥水で汚し傷つけられた。写真洗浄は、その二つの傷の原因となった泥・水を洗い落し、「遺影」としての写真を取り戻すこと。それは失われた日常を弔うきっかけを提供することでもある。

何か、感情のままに書いてしまった。今回の震災ってのは僕にとって、こうした映像群、手持ちカメラのブレと相まった蠢くような津波の映像と、その結果であるところのこれら数多の写真群が強く心に残ってしまってる。

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◎ HAYASHIDA Arata
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