Übungsplatz〔練習場〕

福居伸宏 Nobuhiro Fukui https://fknb291.info/

ジャン=リュック・ゴダールの『映画史』と、ビル・ヴィオラの映像作品と、、、

 ジャック・ランシエールは「ゴダールヒッチコック、シネマトグラフ的イメージ」において『映画史』における諸断片の「結合」が、失われた過去のイメージの「救済」を可能にしていると論じている。ゴダール的編集に、「間隙」だけではなく「結合」の局面を見出そうとするランシエールの指摘は正当なものだ。だがそれでもランシエールの指摘は、ゴダール的救済の半面しか捉えてはいない。過去を「救済」するためには、オルフェウスがそうであるように、みずからもまたいちど死者の国に降りていかなければならない。そしていちど死者の国に降り立つとき、そこから浮かび上がる保証は与えられてはいない。
 ランシエールは、同じ論の最後で『映画史』と一九九〇年代の現代美術における映像作品の傾向に共通性を見いだし、現代美術家ビル・ヴィオラの疑似宗教的なスペクタクルとゴダールの『映画史』を同じ「象徴主義」の名の下に包摂している。そこには、たんなる分析の解像度の粗さにはとどまらない、ランシエールの基本的な感受性の鈍さが露呈されている。ヴィオラはたんに通俗的なのであってそれ以上ではない。だがそのランシエールの鈍さは、たしかにゴダール自身の作品に由来するものでもある。ECMレーベルの荘厳で感傷的なポストモダン・ミュージックにのせて、イメージの「復活」という疑似神学的なテーマを展開するゴダールの『映画史』は、ルネサンス絵画風のイメージを壮麗な音声と高速度撮影されたハイヴィジョンの流麗な画面で包装して観者の消費に差し出すヴィオラの映像作品の通俗性と多くのものを共有している。しかし両者が異なるのは、ヴィオラが消費物としての宗教的イメージによってみずからの作品の救済的意味を固定化するのに対し、ゴダールの編集が、死と救済が可逆的に反転しうる不確定な場そのものを問題にしていることだ。問題はディゾルヴにある。

平倉圭さんの『ゴダール的方法』(インスクリプト)より
http://www.inscript.co.jp/b2/978-4-900997-31-8
先の大震災(後)におけるさまざまなあれこれや、写真村的あるいはマーティン・パー的な鈍さなども思い起こしたりもします。
また、ゴダールとアンヌ=マリー・ミエヴィルは、クリスチャン・ボルタンスキーのインスタレーションについても、
一種の「残虐」「芸術的犯罪」であると非難しているとのことです。
この議論に続く、「ディゾルヴ」「モンタージュ」「静的弁証法」「モアレ」についての記述も要再読。
そういえば、昨日届いた Utopia/Dystopia: Construction and Destruction in Photography and Collage @ MFAH (The Museum of Fine Arts, Houston) のカタログには、
中森康文さんの「IMAGINED WORLDS: DIARECTICAL COMPOSITIONS IN PHOTOGRAPHY AND COLLAGE」という論文が掲載されていました。


平倉圭 hirakura kei
http://hirakurakei.com/


※過去の平倉圭さん関連
http://d.hatena.ne.jp/n-291/searchdiary?word=%ca%bf%c1%d2%b7%bd