Übungsplatz〔練習場〕

福居伸宏 Nobuhiro Fukui https://fknb291.info/

再録(http://d.hatena.ne.jp/n-291/20110101#p5)

■岡井友穂さんのツイッターより
◇ 岡井友穂 (offtrap) on Twitter

写真が示すのはただ視点のみで、徹底的に視線(ないし眼差し)を欠いている。これが写真と他のあらゆる表象メディア、およびテクノ画像とを隔てるものではないか。(私自身を含め)多くの写真論が、写真における「視線/眼差しの構造」を不用意に自明視してきたことが、そもそもの錯誤ではなかったか。

撮影者はなんらかの任意の対象に向けてシャッターを切る。ここにはたしかにその撮影者の視線/眼差しが介在し、写真装置はそれを無媒介に画像として定着しているように見える。だが、写真装置は原理的にそうした撮影者の視線/眼差しを必須の条件とはせず、むしろそのような恣意性と無関係に存立する。

では、同様の光学的機構によって生成する映画やヴィデオはどうか。むろん、映像を定着する段階で原理的にそれは変わらない。だが、それらはつねに継時的連続性を必要とするため、(たとえ撮影された対象が静止したままであっても)そこには運動が生じ、その時間的継起によって視線/眼差しを生成する。

写真映像においてはフレーム内の対象が、一挙に、そして一律に意味を媒介とせずに画像として定着される。その画面が継起的時間性を伴わない単一の画像として生成することが、視線や眼差しといった「目の隠喩」から乖離した、視点(view point)そのものの単独性を現象させるのではないか。

「撮影者」という主体を(仮設的にではあれ)措定してしまっていることや、映画やヴィデオとの比較での「視線/眼差し」の捉え方の位相がややぶれている気がするので、このへんは素描ということで御寛如を。視点と視線/眼差しの乖離というフレームはどう思いますか? RT @rachiakira

あと「その時間的継起によって視線/眼差しを生成する」とした箇所ですが、実際には「生成」というより「再導入」としたほうがよりメディアの性質に近いと思いますし、それ以前にもっと厳密に分析する必要があるので、やはりきちんと詳細に論じるべきでしょうね。ぁぅ。 RT @rachiakira

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※過去の岡井友穂さん関連
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