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福居伸宏 Nobuhiro Fukui https://fknb291.info/

ロシア革命とアヴァンギャルド 初出「情況」1991年2月号 (室井尚) - Virtual Time Garden Hisashi MUROI

 『アヴァンギャルドの理論』の著者レナート・ポジョーリも書いているように、 これらの前衛芸術家が魅きつけられていたのは革命の無政府主義的な局面であり、 革命の理念を民衆に伝達する役割を負わされた時にも、かれらが伝えようとした のはこの自由で無政府主義的な雰囲気にすぎなかったのである。ポジョーリの言 う「二つのアヴァンギャルド」、すなわち政治的前衛と文化的前衛とはここでも 全く水と油の関係にあったのだ。
 とはいえ、革命のメディアとしての芸術という試みが全く無駄であったかとい うとそうではないだろう。『芸術理論の終焉』の著者、ヴィクター・バーギンが 指摘しているように、そこには、たとえばマレービッチやガボなどの審美主義的 な流れにとは別に「レフ」グループなどの「生産的芸術」の実現への試みもあっ たのであり、それは二〇年代におけるベルリン・ダダの運動や、三〇年代におけ るアメリカのWPA(連邦芸術プロジェクト)の大衆芸術運動に結びつく流れを 作り出していた。
 たとえば、一九二二年『構成主義』においてアレクセイ・ガンはこう述べてい た。「絵画、彫刻、演劇はブルジョワ資本主義美学の物質的形態であり、混乱し た社会秩序における消費者の『魂の』需要を満たすものである。(構成主義者は) 一度だけ芸術を通過し、真に工業製品へと前進したマルクス主義の教育を受けた 者でなくてはならない」。
 タトリンのようにデザイナーとして工場に入ったり、あるいはマスメディアと 結びついて活動を続けようとしたものたちもいた。「伝統的な書物は頁毎に分断 され、百倍に引き延ばされて明るい色に塗られたポスターとして街頭に貼り出さ れたのである。アメリカのポスターとは異なり、われわれのは通りすがりの車か らたった一度一瞥されるためのものとして計画されたのではなく、短い距離から 読まれ、よく消化されるためのものであった」。
 バーギンは書いている。「『現実の鏡』として機能するとされているイーゼル 絵画に対して、レフは写真を対立させる。それは事実を定着するより正確で迅速 で客観的な手段だ。運動の永遠の源泉であると宣言されるイーゼル絵画に対して、 レフはプラカードを対立させる。それは空間的でデザイン化され街路や新聞やデ モにおいて採用されるものであり、砲火の確実さと共に情動を打ち叩くものであ る。文学においては『美文学』や『反映』に関するそうした宣言に対して、レフ はルポルタージュ――『ファクトグラフィ』――を対立させる。それは文学的伝 統を破壊し、全面的に新聞や時報を支える大衆主義の領域へと移行する」。
 おそらく、こうした動きはただ単に政治的圧力に対する適応の試みとだけ解釈 されるべきものではない。たとえば、それは後にグリーンバーグらによって偽の 文化であるキッチュとして否定される大衆文化やマスメディアと「前衛芸術」的 活動性の結びつきのひとつの重要な可能性を含んでもいたのだ。

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