Übungsplatz〔練習場〕

福居伸宏 Nobuhiro Fukui https://fknb291.info/

前川修さんのはてなダイアリーより

◇ 内職 - はてなStereo Diary

会議中にスナイダーの彫刻写真論読了。

スナイダーの議論の核心は1850年代前後で写真のメディアの意味が根本的に変わるということにある。リトグラフなどの印刷メディアに並ぶメディアとしての写真から、現実を写し取る光沢あるメディウムとしての写真へ。そこにアリナリの彫刻の撮り方や修正の意味合いも見いだせるということ。気になったステレオ写真への言及が二,三箇所あるものの充分に展開されずじまい。

もうひとつ。セクーラも流し読みする。

http://d.hatena.ne.jp/photographology/20070124


◇ 媒体 - はてなStereo Diary

 とりあえず簡単にまとめていこう。

 「接続可能なもののみがそもそも存在する」。

 キットラーのメディア概念は、その史的メディア学の企図の枠組みの中で明瞭な輪郭を得る。彼がメディア概念に関心を示すのは、この概念が従来とは少々異なるメディア史の境界を浮かび上がらせるからである。つまり、従来のメディア史において常套句となっている、三つの区分――アルファベットの発明、活版印刷の発明、コンピュータの発明――とは異なる区分をこの概念は可能にするのである。

 キットラーの区分は、アルファベット、アナログメディア(グラモフォン、シネマトグラフ)、デジタル技術となる。手書き文字や活字の時代は「象徴界」に結び付られていたのに対して、アナログメディア以降の技術は、「リアルなもの」の保管と加工と伝達を目的としている。言い換えれば、文字の時代においてはすでに象徴界の要素であるものが書き留められ、いわば記号の「自然」がそこでは重要であったのに対し、アナログメディアによって、象徴界の外にあるもの、つまり自然そのものが書き留められることになる。ちなみに、写真にもこのことは当てはまることは言うまでもない。

 キットラーのこうした区分、あるいはそれを組み立てとしたメディア学の試みのひとつの意図とは、解釈学的な精神科学をメディア史学と交差させることにある。もっと強く言うならば、これまで象徴界でもっぱら紡がれていた人文科学、その、意味と解釈を統御している当のメディアそのものについて考察し、メディアを通じてその硬直性を解除することにある。

 ここで彼の議論に対してふたつの不満が表明される。ひとつが、メディアとしての身体の排除、人間の知覚の排除という批判である。ふたつめが、シャノンの情報理論になぜ現在もなお意義が与えられているのかという批判である。

 前者の批判に対しては、容易に返答ができる。いつもすでにメディアを介している視点、つまり接続可能性の視座から議論が行われているのである。後者の批判に対しては、シャノンのラディカルさに着目すればよい。日常的言語も含めたコミュニケーションすべてを伝達という視座の中に収める理論ゆえにそれが選択されているのだと。

 しかし、そもそもキットラーは、技術的なものという概念に何でもかんでも還元していないか? そもそもがメディア論ゆえにそうなるべくしてそうなるのだと片付けてしまうのではなく、彼の技術概念がその理論の核に関わっていることも考えておかなければならない。(つづく)

http://d.hatena.ne.jp/photographology/20070205


◇ 媒体 - はてなStereo Diary

 彼の技術概念には、私たちの時間に対する関わり方が含まれている。流れゆく時間の不可逆性、それを操作可能にするのがこうした技術なのである。それは別に映像の記録可能性や録音可能な時代以後のことではない。文字と書物の時代においてすでに、象徴界の線状化された時間は、書物の頁状の文字を見れば明らかなように、すでに空間化を被り、反復可能で、置換可能となっていた。しかし、アナログ技術メディアの時代には、カオティックでもあるリアルなものの時間が保存可能になり、操作可能にもなる。技術的メディアによるデータの加工は、空間化を通じて時間的順序が移しかえられ、可逆的にもなるプロセスなのである。

 文字メディアから技術的メディアへといたるメディア史の探求を以下にポイントをおさえつつ整理してみよう。

 ここで文字の時代以前以後の区別に進む前に、キットラーフーコーの共通点と差異も確認しておかなければならないだろう。両者の差異は予めキットラーの言うアナログ的な技術メディア、新たな書記システムとそれ以前の時代とを区別するうえでも、方法論的な区別をするうえでも重要だからである。

 両者の共通点は、ディスクール分析にある。意味や理解ではなく言説の総体を統御している諸規則、そしてそれと交差する非言説的技術、その基盤となるアルシーヴ、こうした諸概念や方法をキットラーは受け継いでいる。

 しかし、キットラーによれば、フーコーの議論はアルファベットの体制の時代に対応し、そのアルシーヴ・モデルは依然として図書館であった。1850年を境にして生じる別の「書記システム」の登場、それはむしろアナログ技術メディアにより促されたのであり、そうした知の諸形態を分析するには、もはやディスクール分析ではなく、技術的メディアの分析に依拠する必要がある。キットラーフーコーの探求が終結した時点から始まるというのはこうした意味においてである。

 そしてディスクール分析の変容とともに、そこで用いられるメディア概念自体も変容させられる。メディアはデータの保存、伝達、加工を行う領野を構造化している。データがあり、それを伝達する担い手としてのメディアがあるわけではない。むしろある時代においてそもそもデータと見なされるものを予め形成している諸技術や諸制度の成すネットワーク、それが彼の言うメディアであり、書記システムの場所なのである。

 ということでアルファベットの時代、その書記システムから見ていこう。

 

 文字の時代。多くのメディア論でもしばしばなされる話し言葉と書き言葉との差異は、キットラーにおいても重要な区別になっている。しかしキットラーにとって決定的なのは、この書記システムを通じて生起するものすべてが象徴界の秩序に属しているという事態である。この文字メディアが保管・伝達・加工するデータは、シニフィアンの連鎖、コードを通じて与えられる。後の技術的メディアに比較すれば、その違いは明瞭である。コード化不可能な物理的世界ではなく象徴界に関係づけられるデータを生み出すのが、前者のメディアである。

 もちろんメディア的なものを語る場合、メディアは記号の伝達を行う担い手であるという物言いは、ごくありふれたどこにでもある言い回しである。しかし、彼の議論においては、それは文字メディアに、アナログ技術メディア以前にもっぱら妥当するのであり、象徴界という概念は、周知のように、ラカンの用語から取ってこられたものなのである。

(続く)

http://d.hatena.ne.jp/photographology/20070206


◇ 逆回し - はてなStereo Diary

「リアルタイム・アナリシス…」では、象徴界の説明は次のようにされている。

象徴とは象徴外のものを表すのではない。むしろ象徴とは、――あの盤上のゲームのように――ひとつの空所があるために、象徴を別の象徴のある場所に置き換えたり、相互に移動が可能な空間、そうした空間のなかの要素であると。このような不連続な構造をそなえたシニフィアンの連鎖は、時間の非連続化という時間軸の操作も引き起こす。

 この時間軸操作の担い手は文字である。

 連続的、継起的な時間の流れのなかでは、先ほどの盤上ゲームの場合のように「填められた場所と空の場所の並存」は与件ではない。それゆえ、流れゆく時間の秩序は不可逆的でありつづける。ここで登場するのがアルファベット文字である。それは「時系列に並んだ発話の連鎖の各要素に空間上の位置」を割り当てる技術であった、とキットラーは言う。もちろんそこには空所(Leerzeichen、スペースないしゼロ記号)が存在しなければならない。ここが線状化のみを指摘するマクルーハンとの違いである。

 文字及び空所がない場合、「一度発話されたことを、シンタックスを無視して後から前へと暗証するような」別の秩序へ移すことは不可能である。一方向の反復や暗唱、それを行う人間の一時的記憶しかそこでは依拠することができない。

 しかし、このことを、時間における継起を空間における並置へと配列しなおすことで可能にしたのが文字と空所なのである。例えば語間や文の両端にあるスペースという区切り記号によって文字は移動可能になり、それと同時に時間は配列可能になり可逆的にもなる。回文そして詩もこうした操作を前提にしているとキットラーは言う――さらには楽譜もこうした例のひとつに挙げられる。

 したがって文字というメディアにおいては、データを保存するということは、ここでは時間のプロセスを空間化し、その諸要素が交換、配列されるための基本的操作すべてを含んでいることになる。

 キットラー特異点は、通常のメディア論でなされるグーテンベルクの銀河系以後/以前という区分を採らないことにある。彼は両手で持ち、次々と繰り広げる巻物からページに区切られた写本という形態への移行こそが切断面になると考える。読みの経験が連続的な秩序のもとから離れ、空間的に分割されたものへと移る。テクストのどの場所が指し示されているのかが明示可能になる構造、それが以後の印刷可能性において「ステレオタイプ」化されたのである。もちろん上記のことは印刷技術によって可能になった図版複製にもあてはまる。

http://d.hatena.ne.jp/photographology/20070209


◇ パンダ的 - はてなStereo Diary

■彫刻写真論

 トルボットの『自然の鉛筆』についてのジョエル・スナイダーの論。

 写真の用法を披瀝したこの5巻組の世界初の写真集には二枚の彫刻写真がおさめられている。同じ彫刻を撮影した《パトロクロスの像》。この写真に付けられたテクストは次のような内容を語る。写真は、同一の彫刻をどのような方向から照明を当てるのか、そしてカメラと被写体の距離をどれだけ置くのかによって、さまざまな――明暗とサイズという――ヴァリエーションを生じさせる。これが一枚目の彫刻につけられたテクストである。同じ彫像を別アングルから撮影したもう一枚の写真には、次のような文章がつけられている。ドローイングへといたる王道はないと一般に言われている。しかし写真発明以後はそうした王道への手助けになりうる装備が登場したのだ。遠近法の法則など、怠惰なアマチュアたちにとっては妨げとなる諸法則の学習も軽減されるのだ、と。

 スナイダーはこのドローイングという言葉――フォトジェニック・ドローイングというトルボット自身による呼称も含め――を問題にしている。簡単に言えば、トルボットにおいては、写真は発明された当初、構図や主題の選択など、伝統的な絵画的イメージの文法や諸法則を引き継いだものであった、とくに版画と写真は、新旧複製技術として連続したものとみなされていた。もちろんそこにはトルボットの社会的地位や共同体の問題もひかえている。少数の金銭的時間的余裕のある知識人たちの共同体、これが彼の想定するアマチュアたちであったのは確かである。

 生産方法としては革新的でありながら、その表現方法においては既存の表象的伝統を引き継ぐ。目の訓練と同時に必要な手の訓練、つまり素描の負担を軽減するための手段、写真はその可能性をまだ充分には意識されないままである。ところが、世紀半ばには、、、というのがスナイダーの議論の段取りになっている。

 もちろん、以前トルボット論を書いたときには、この逆の側面を強調しておいた。なぜなら、トルボットが被写体に選ぶのは、自身の地所ばかりではなく、複製版画、書物のページ、コピー彫刻など、それ自身が複製である事物だからである。こうしたトルボットの両義性は、記憶術の文脈から彼の梯子写真を論じたウィーヴァーの論でも議論されていた。

 スナイダーによれば、こうした彫刻写真と、19世紀半ばの彫刻写真の議論と比較すれば、メディアの状況やその表象様態が明らかに変化していることが分かるという。ここでも彫刻写真が例になる。以下つづく。

http://d.hatena.ne.jp/photographology/20070309


◇ 坂道 - はてなStereo Diary

■彫刻写真論

ヴェルフリンの彫刻写真論を読む。これは昨日のトルボットの彫刻写真から50年後の話。

 当時普及していた複製会社による彫刻写真の多くが、彫刻をいかに誤った視点や角度から撮影し、彫刻作品の本来持つ効果や諸部分の連関を損なっているのか、それが彫刻の見方とともに丁寧に語られる。

 例えば当時の様子に次のような批判が投げかけられる。

先の解説のなかで私は、イタリア・ルネサンスのいくつかの有名な作品について論評をした。その意図は、古くからある彫像は任意のあらゆる角度から観てよいわけではない、彫像にはむしろその一定の〔観るべき〕角度がある、〔ところが〕写真を撮影することが肝心のことになるやいなや、ひたすら許しがたい軽率さのために彫像にこのような芸術的に意図された角度が不当にも与えられないことになってしまう、こうしたことにふたたび意識をとぎすますということであった。残念ながら、こうした軽率さは一般に広まっているため、彫刻の満足のいく写真には稀な場合にしか出会うことがないほどである。ほとんどつねに通常の正面観が回避されており、しかもひとびとは「絵画的」な魅力を彫像に与えれば、つまり、やや横からの視点を採れば、彫像に最大限の満足を与えると思いなしているのである。そのために大部分の場合において最良の価値が失われてしまっていることを知る人はほとんどいない。
アリナリの写真がそうしたとんでもない例として挙げられる。

例えば次の二枚。そして複製版画。

http://d.hatena.ne.jp/photographology/20070310


◇ 指輪写真 - はてなStereo Diary

■彫刻写真

1851年ロンドン万博が開催された年、アントワーヌ・クローデ――フランス出身の写真家、当時ロンドンに写真館を開業していた――は博覧会の模様を撮影し、自身のスタジオで展示を行う。この写真についてある記者は次のように語っている。

それは、巨大な建造物、そこに集められた宝としての芸術作品、そうしたものがすべて圧倒的に迫ってきて、想像力よりはむしろ感覚による走査が必要になる写真だ。あるいは、完全な「立体性」をともなって、「明瞭」なしかたで彫刻が「そこにある」かのようである。

 これは言うまでもなくステレオ写真のことであった。水晶宮のなかに集められた彫刻の写真を立体視してみれば、こうした反応がより具体的に理解できるだろう。しかし、別のところでは次のような意見まで述べられるのである。私たちは「対象そのものを見る代わりに」それを見ている、いや、立体写真の明瞭性は現実の事物を凌駕してさえいる、なぜなら博覧会場の内部空間をこのようにすみずみまで明瞭に見渡したものはいなかったからだ、。

 一方で写真が、――カロタイプのような肌理や諧調よりも――その透明性によって受容され、他方でその立体性、その立体性にともなう異常な明瞭さが、写真の帯びる特徴になる。ステレオ写真こそが50年代からの写真の受容方法を決定づけた。その代表的な例が水晶宮に居並ぶ彫刻群の視覚なのである。

つづく。

http://d.hatena.ne.jp/photographology/20070311


◇ 空耳スリラー - はてなStereo Diary

久々に開く。この第三章「the Panoptic Gaze and the Anamorphic Archive」も写真と美術史の問題を議論している。

「美術史という現代的学問を構成している諸機構の強力な網目は、写真の存在を前提にしている。事実、今日私たちの知っている美術史は写真の落とし子なのである。19世紀末の四半世紀におけるアカデミックな学問としての始まりから、フィルムの技術が分析的な研究、分類学的な整理、歴史的、系譜学的な物語の創造において重要な役割を果たしているのである。ランタンのスライド投影はかなり早い時期にこの領野に入り込み、研究、分析、イメージの比較のフォーマットを確立したのである。

 しかも20世紀に現存するこの学問的機構全体が、これに相関するテクノロジー――映画――なくしては考えられないのである。数多くの重要な点で、現代の美術史は、このうえなく映画的実践だったのであり、映画的〔filmic〕手段による歴史的物語や系譜学の呈示の組織化に関わってきたのである。要するに、現代の美術史学は、映画的実践のメタファーに基礎づけられており、ほとんどすべての側面において、美術史は、リアリズム映画の言説的論理をたえず参照し、その論理を含意しているほどなのである。美術史のスライドはつねに歴史映画のスチルとして組織されている」。

 映画という喩えないしは技術への言及の根拠が少し不安なのはさておき――――、1890年代の美術史と映画という問題は、別個に立てることもできるテーマである。1890年代における映画の誕生と美術史へのスライドの導入は、静止と運動の微妙な問題を照らし出しているのではないか。スチル/ムーヴィング問題をここから切っていく可能性も考える。ガニング論やラルティーグ考の分岐線にもなる。

http://d.hatena.ne.jp/photographology/20070312


◇ 再開 - はてなStereo Diary

■彫刻写真論

その二年後1853年のロンドン写真協会でのさまざまな発言もこうした写真の機能転換のタイミングをしるしづけている。そこでは、王室からの後援を約束する書簡が読みあげられた後に、次のような憂慮すべき事態について言及した論文が読みあげられたという。

 それは、写真が現在リテラルなものになってしまっている、このままでは芸術作品と競合しえない、写真に芸術性を帯びさせるべきである、という内容のものであった。芸術の他者としての写真の規定、言い換えれば、写真がリテラルに透明に事物を伝えるイメージであると見なされるのがこの時期のことなのである。この、機械による自動的な刻印、科学的手段としての写真という見解が、写真の商業的生産をおしすすめることになる。

 これにともない、19世紀半ばに諸外国の有名な景観、建築物、絵画、彫刻の写真が生産消費のアイテムとして姿を現しはじめる。例えば、アリナリ、フリス、グーピー、ウィルソン、ベッドフォードなどの名前を挙げておけばよいだろう。プリント生産のしかたも変化する、以前よりも生産工程がさらに細分化され、写真は大量に生産される。商品としての写真、そこに記載される名前(例えばアリナリ)は、制作者や著者性を示すというよりもむしろ、企業の自己宣伝の記号だった。カメラマンでもなく、プリンターでもなく、アリナリという会社の名は消費者がさらに同社のカタログを見てプリントを注文するための印だった。

 ここで昨日挙げた光沢がこうした変化のなかでひとつの役割を演じる。写真が帯びる光沢ある表面――グラフィックアートのなかでは先例のない特性――は、複製可能な商品のもつ外見となっていた。(トルボットらを第一世代とすれば)第二世代の写真家たちは、色調の多様性よりもむしろある限定された範囲の色調の範囲内で作業を行うようになる。この物質的な特性の変化、そして先に述べた生産方法の変化にともない、写真の表現方法も変化することになる。

 光沢あるプリントはすべての細部を克明にすることばかりでなく、プリントのコントラストと色価を増大させる。つまりそうした表面はどんなに低い色調の価値にもより深い奥行きを与え、色価を最大限にまで高める。こうした条件は写真の描出方法に影響を及ぼす。これがまずひとつ。

 次に表象的伝統との断絶がある。

 先の商業的生産は、写真の最初の世代の制作者や観者には知られていた表象の伝統を少しも知らない企業家たちに生産手段を委ねている。この変化を示すのは王立写真協会の以下のような事実である。同協会は、1854年には芸術家、法律家、弁護士、科学者たちによって形成されていた。しかし、それが実業家の支配する同業者組合に変容していく。1860年代までには先の創設者のほとんどは協会を離れてしまうのである。絵画的伝統にしたがった主題の選択、描写の効果への多様な関心が、限定された法則に移行する。

 では彫刻写真の場合、撮影のしかたにどのような変化が生じているのか。

http://d.hatena.ne.jp/photographology/20070313







〈編集中〉







◇ ドキュメンタリー、アーバス - はてなStereo Diary

ドキュメンタリーに対するセクーラの位置も、彼の議論から拾っておく。これは「モダニズムを解体し、ドキュメンタリーを創出しなおすこと」という『写真を逆撫ですること』所収の論から。

「ドキュメンタリーというジャンルの政治的批判が大いに必要とされている。…〔中略〕…美術としての写真をめぐるアートワールドの騒ぎを振り返ってみれば、このような問いかけ〔※〕のほとんど病理学的とでもいうべき回避が気づかれる。ドキュメンタリーが公に美術として認識されるときに奇妙な事柄が生じている。突如として、解釈的振り子がその弧の客観主義的な極からそれとは反対の主観主義的な極にふれたのである。実証主義が主観的な形而上学に、技術主義が作家主義に道を譲っている。突如として、観衆の注意が、芸術家が採った手法、感受性、身体的で感情的なリスクへと向けられるのである。ドキュメンタリーは、それが世界への指示を超越し、作品が第一に芸術家の側での自己表現の行為と見なされる際に、芸術と見なされる。ヤコブソンのカテゴリーを用いれば、現実指示的機能が表現的機能へと崩れていくのである。作者崇拝、作家主義がイメージを掌握し、イメージをその制作の社会的条件から分離して、写真が一般に使用される多数の低次の日常的な用法よりも高次のものに高められるのである」。

とくに例として挙げられるのは、ダイアン・アーバスである。もちろんそれは『ニュー・ドキュメンツ』展以降のドキュメンタリーのあり方全体への批判でもある。この論文の前半は、セクーラが敵対する写真の主潮流への批判がおもな内容であり、後半は彼がオルタナティヴなドキュメンタリーの試みとして挙げるいくつかの例の紹介である。前半はざっと訳してしまう。


■パノラマからディテイルへ

 「陰気な科学」の後半をざっと読む。つまり、19世紀末を境として海の空間を捉えるパラダイムがパノラマからディテイルへと推移したという話が豊富な例とともに語られる部分である。海軍史、プルーストエイゼンシュテインポチョムキン』、ザンダーの船乗りの写真、スティーグリッツ《三等客船》、ポパイ、ミッキーマウス、ポップ・アート、無数に海の表象の転換を捉えるための事例が挙げられる。

 スティーグリッツの写真を契機としたモダニズム写真の開始は海を基点としているし、ザンダーの演習用地図は船乗りをその奇妙な係留点としそうであるし、写真史のなかの海の問題は案外面白い。もちろんセクーラはこうしたテクストの前後に港湾都市の写真シークエンスを挿入し、資本と労働と海の不安定な関係を描き出そうとしているのではあるが。

 とはいえ、海表象論の19世紀末以降バージョンとして系統的に素材を蓄積していくことにした。

http://d.hatena.ne.jp/photographology/20090304


◇ 海表象、写真の意味 - はてなStereo Diary

■写真の意味の創出について

これも教科書的な内容であるが、セクーラの写真論の出発点でもあるのでざっと前半を訳す。


アメリカ写真を読む―歴史としてのイメージ


がもうすでに出ている現在、ハインの素描は物足りないかもしれないが、ハインやスティーグリッツのMoMAでの論じられ方、70年前後のドキュメンタリーの失効という事態がたぶんこの写真論の契機になっているのだろう。

「写真の交通」を読み直しはじめる。『人間家族』展への執拗な分析と批判が特徴。ただし、その主眼は、美的モダニズムであれ、道具的リアリズムであれ、ある並行した抽象的、形式的、数学的論理に従い、その論理が写真史の結節点ともいえるそれぞれの時点で表明されていること、そしてこれを抜け出る論理はあるのかとあらためて問うことにある。

http://d.hatena.ne.jp/photographology/20090305


◇ 発行のお知らせ - はてなStereo Diary

□『ライフ』

写真論の基本的な歴史的事象について授業で話しているのだが、フォトジャーナリズム関連で調べてみたら、グーグルブックスに有名写真のフォトエッセイ掲載号がごろごろとあがっていることに今更ながら驚く。

たとえば、ユージン・スミスのカントリー・ドクターはここバーク=ホワイトのルイヴィル洪水はここユージン・スミスの水俣はここ。そんなの知ってるという声は多いと思うが、広告を含めたそのほかのページとの落差や並置のされかたが明瞭に分かる。

http://d.hatena.ne.jp/photographology/20130427