Übungsplatz〔練習場〕

福居伸宏 Nobuhiro Fukui https://fknb291.info/

再録(http://d.hatena.ne.jp/n-291/20131110#p12)

■[資料]
◇ Nobuhiro Fukui(@n291)/2013年07月26日 - Twilog

明日というか今日の夕方、自分の個展のオープニングなのに夏風邪が治らず体調微妙。おまけに変な時間に目が覚めてしまって、眠れないので昨日ツイッターを少し見ていて思ったことを書いてみようと思います。

昨日たまたまタイムラインで見かけた次の記事を読んでみたのですが、あまりにもツッコミどころ満載でびっくりしてしまいました。【ニッポン国デザイン村 番外編 (ヨーロッパ) - ART iT アートイット】http://j.mp/14Otfui

都築さんクラスの書き手なら、10年から15年前くらいに書いていてもおかしくはない内容です。というか、そもそもここで提示されている話は15年から20年くらい前の話なのでは?→コンテンツの並列化とコンテンツのつなぎ=エディティング(サンプリング・カットアップ・リミックス)→90年代

そして「トレンド」の話や「完全に時代から取り残された言葉しか持てないできたファッションジャーナリスト」が、もし批判の対象のひとつであるのだとすれば、その構図に筆者本人があてはまってしまっているという可能性への、当然あるべき考慮を徹底的に欠いた文章のようにも読めてしまいます。

“Tunesとしての展覧会と、DJとしてのキュレイター”というコンセプトについては、椹木野衣さんがずいぶん前から積極的に取り組まれていて、いろいろと素晴らしい成果を挙げてこられているのでは?それを今更、欧州で開催されている膨大な数の展覧会の一部を恣意的に拾ってきて、

今まさにこんな時代が到来しています的に吹聴するのはどうなんでしょうか?筆者の欲望の反映としての文章だということがもう少しきちんと伝わればよいのでしょうが、SNSの時代になってますますつられやすくなっている人々が、こうした物言いに簡単にひっかかってしまわないことを望むばかりです。

ロンドンでのいくつかの展覧会(ギャラリー含む)は、ジオーニのヴェネツィアに合わせて企画されたものである可能性が大きいのだとは思いますが、そもそもアウトサイダーアートはずいぶん前からアートの領域の一部分を占めているものですし、1990年代以降の展覧会数の統計を世界の各地域ごとに

とってみれば、けっこうな数の展覧会が開かれているはずです。データの恣意的な読み解きには要注意です。それに、こうしたことはとりわけ海外視察の日本での発表会(ビジネス)でも散見されることなので、気をつけないといけません。辺境の地で偏狭な世界認識と価値判断を舶来の創作物(文物)に投影…

…みたいなことが延々繰り返されています。せっかくネットの時代になったことですし、ちょっと海外取材して国内で小商いみたいな芽をきっちりと摘んでいってあげることが必要なのかもしれません。また、昨日読んだ文章は、ラッセンにまつわる昨今のあれこれともどこか通じる問題だと思っています。

っていうか、ラッセンを最強のアウトサイダー・マリンアーティストとして徹底的にフィーチャーして(日本にも帰化してもらって)、日本を代表する現代アートとしてどんどんと海外展開していけば、日本でコチョコチョやってても到底ムリというルサンチマンからも解消されたりされなかったりして(^^;

てな冗談はともかく、ラッセン本は読んでいないので http://j.mp/13hjjE5 、もし誤りであれば申し訳ないのですが、ラッセンにまつわるアレコレで一番気になるのは、何だか他人事みたいだといことです。日本における美術(アート)のプラットフォームとして、どういった形を

彼らが、現在、そして将来的に望んでいるのかといった話をまったく伝え聞かないのですが、それは私の情報収集能力に問題があるだけなのでしょうか?(画壇の解体からNPO法制の改革から黒画商の指弾からと解消すべき問題が、日本の社会が抱えるさまざまな問題と同様に、山積みになっているはずです)

そしてそうした話を現場研究会以外ではほとんど耳にしないのと同様に、将来的に実際にいろいろと行動に移していこうとしている人々が、鑑賞者、作家、批評家のレベルでどのくらい存在していたりするのでしょうか? そういうリアルな話はどうでもよくて、「あのときラッセン、アツかったね!」とか、

ラッセン、キテるね!」とか、「ラッセンいまいち流行らなくなったね」とか、「次はヒロヤマガタ(実は対象は何でもよい)がアツい!」とか、ってこと延々これからもずーっと続けていくんでしょうか?それはそれで楽しいことだとは思いますが、そうしたサブカル的、カルチャー的ものをお気楽に支えて

いた社会的な基盤がどんどん崩壊していっているいま(モーリー・ロバートソンさんなどの話では50代・40代のバブル期のお気楽な時代を過ごしてきたサブカル・カルチャー系業界人が昨今の現実の社会の動きについていけず極端な方向性に走ったり鬱になったりということが起こっているとのこと)、

繭の中で育って、繭の中に閉じこもったまま、今は過ぎ去ってしまった“良かった時代”の日本人が謳歌していたようなライフスタイルを、楽しく何も考えずにこれからも享受していく、みたいなことが可能だとは到底思えないのですが、どうなんでしょう。

それはさておき、自分で初めて買った画集が大竹伸朗さんの『SO』(編集は都築響一さん)であり、都築さんの書いてきたものなどにもいろいろと刺激や影響を受けてきただけに、いろいろと残念な一件でした。。

きりがないですが1つだけ補足。ハンス・ウルリッヒ・オブリストがジェットセッターになったのは、90年代中ごろから?【Hans-Ulrich Obrist - Wikipediahttp://j.mp/sKbk3f

まとめができてました。【【自民 】 総理大臣が立憲主義からの離脱を表明しても問題にならない国 【改憲 】 - Togetter】http://j.mp/13hnrUH 【総理大臣が立憲主義からの離脱を表明しても問題にならない国】http://j.mp/13hnyzx

http://twilog.org/n291/date-130726/allasc


◇ Nobuhiro Fukui(@n291)/2013年09月30日 - Twilog

ラッセン云々はある種の人々の体のいい玩具であり阿Q的思考法ということで、ビバン本当にフロント企業?の件を少し掘り進めてみたもののウェブには有益な情報が乏しい模様。以前より某広域指定の伝統的なシノギではあるはずですが。あとこんなの発見。http://j.mp/1eT3wFv

ラッセン云々]クリティカルごっこや井戸の中のポジション取りは本質的にナンセンス。※筋金入りのポピュリストの場合(この行動パターンにも学ぶべきことはあるでしょう)→http://twilog.org/n291/search?word=%E7%89%87%E5%B1%B1%E3%81%95%E3%81%A4%E3%81%8D%E3%80%80%E3%83%A9%E3%83%83%E3%82%BB%E3%83%B3&ao=a ※※語るに落ちていた件→https://twitter.com/sohsai/status/370614005762514944

http://twilog.org/n291/date-130930/allasc


◇ Nobuhiro Fukui(@n291)/2013年10月21日 - Twilog

ちょっと前に『美術手帖1995年7月号 特集:快楽絵画』『STUDIO VOICE 2000年9月号 特集:Honey Painting』『現代美術史日本篇』を読み直しましたが、ここ最近の奈良さん×ラッセン語りなどドメスティックな尻馬乗りのダメさを再確認しただけという当然の結果に

そもそもPaintingについての思考がかなり手前のところに留まっているのではないかという。あれだけアート関係(周辺)の人々がそれについて語っていても、ラッセンの風景版画と奈良さんの肖像画が観者との間に取り結ぶものが相当に異なる質のものだという基本的なことさえ顧慮されていない様子

しかも絵の中だけの話に留まっていたりとか。ごくごく判りやすい話でいえば、ラッセンごときが、青木淳さん設計の青森県立美術館の空間を十全に使いこなせるはずはないということ。奈良さんの展示技術の巧みさや作品展開の上手さは、展示をきちんと見ていれば普通に理解できることでしょう。アホか?

奈良さんのタブローを図版で見たほうが良く、ドローイングは実際に見たほうが良いというふうに語っていた方もいたりしましたが、それだとたぶん奈良さんの目指しているものには到達できていないでしょう。ちょっと前に東京都現代美術館のコレクション展で奈良さんと櫃田伸也さんの特集がありましたが、

あのとき奈良さんのタブローのマチエールと絵の内容の絡み合い方から、図版で見るときのように“心地よく”観賞できなくて、イマイチだったみたいに話していた方もいましたが、奈良さんのペインティングの多くはそもそもそうした心地よい受容(快楽)のために描かれているものではない、ということに

思い至らなかったようです。いろいろと細かく説明していくとキリがないのでこのへんにしますが、日本ではリトルモア経由などでも作品が紹介されたこともあってサブカル的なラインでも奈良さんの作品は見られたりしますが、海外ではまったくそうしたものなしに判断されて評価されているということ

についてはよくよく考えてみる必要はあるでしょう。奈良さんはデュッセルドルフ・クンストアカデミーで普通に超アカデミックな教育を受けている方なんですが。。受容のされ方にナイーブアート的なものというのもなくはないのでしょうけども、もっと異なる位相で評価されていると思います。

この方は高校生のようですが、近作の海外での評価され方は、このあたりのほうが近いのでは? http://j.mp/1fOTLbV http://j.mp/1fOTTIn 横浜美術館での加藤磨珠枝さん(美術史家・立教大学准教授)のトークでも出た話かもしれませんが。

それはそうと、昔銀座の画廊で加藤泉さんの作品を拝見したときにも考えていたことですが、ペインティングに“表象された”“ある存在”と向き合うということ。その何とも言語化しづらい奇妙な経験をどのように記述すべきなのか?作品について語る人には、まずそこから考えてほしいと改めて思ったりしました

http://twilog.org/n291/date-131021/allasc