Übungsplatz〔練習場〕

福居伸宏 Nobuhiro Fukui https://fknb291.info/

山端庸介 - Wikipedia

山端 庸介(やまはた ようすけ、1917年8月6日 - 1966年4月18日)は日本の写真家、従軍カメラマン。法政大学中退。英領シンガポール生まれ。
長崎市への原子爆弾投下直後の1945年8月10日に市内へ入り、被害の状況を撮影した。

1955年 - ニューヨーク近代美術館で開催された写真展「ザ・ファミリー・オブ・マン」に山端の原爆写真「おにぎりを持つ少年」が展示される。
同展は翌年日本の会場でも開催されるが、山端はニューヨークで展示したものとは別の、黒焦げになった少年の死体写真を引き延ばしたものを展示したため、昭和天皇の参観に際し主催者が同作品をカーテンで覆い数日後には撤去され、名取洋之助らが抗議した。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E7%AB%AF%E5%BA%B8%E4%BB%8B


◇ 第44回例会レビュー : 写真研究会

「写真と語り:「人間家族」展(1955年)における原水爆写真の展示を巡って」というタイトルの報告でした。最初に、土山さんの博士論文の構成が示され、その第二章「1956年・東京展「ザ・ファミリー・オブ・マン、われらみな人間家族」を中心に報告がありました。

ここで、今までの写真研究会での土山さんの報告を簡単にふりかえっておくと、一作年は、現在では冷戦期のアメリカの文化戦略として(批判的に)位置づけられるようになったスタイケンの「人間家族=The Family of Man」展を、ロシア・アヴァンギャルドバウハウスの展示デザインの思想の継承という観点から捉え直そうという報告でした。報道写真を美術館で展示し、写真パネルをインスタレーションとして観客に体験させるという彼の展示方法が、当時にあっては画期的なものだったということが、よくわかりました。

昨年は1956年の東京高島屋の展示と山端庸介の被爆写真撤去事件についての報告でした。丹下健三が会場を設計し、河野鷹司がカタログをつくり、木村伊兵衛や渡辺義雄、金丸重鎮が関わった日本側の顔ぶれは、いわば戦前日本のモダニズムが戦争の時代を通過して戦後までつながっている証しとしても興味深かったのですが、会場を訪れた昭和天皇の目から山端庸介の被爆写真がカーテンで隠された事件についても、同時代のメディアの反応などを中心に詳細に紹介されました。

今年は、以上の報告を綜合しながら、昭和天皇の来場は当時のアメリカ大使アリソンの招待だったこと、その際に大使の側から被爆写真の存在が問題とされたことなど、新たに調査された事実を踏まえて問題が整理されました。

NY展では「戦争と顔」のセクションに「おにぎりをもつ少年」の顔が他の人物の顔と一緒にレイアウトされて(つまり原爆被害という特定の文脈から切り離され)展示され、最後の部屋には水爆実験のきのこ雲がカラー写真で展示されたのに対して、東京展では原爆の表現については日本側に編集権が委ねられ、その結果が長崎の原子野の写真だったそうです。また、水爆実験の写真が展示されなかったのは、1954年の第五福竜丸被災事件を契機に日本で原水爆禁止運動が盛り上がったという時代背景があったのではないか、こうした展示の差異はすなわち日米の原爆認識の差異を示すのではないかと指摘されました。

写真撤去事件については、従来は天皇に対する日本側の自粛という語りがなされてきたのに対して、土山さんはアメリカ大使への配慮(どちらも「自粛」し,「配慮」したのは、最終的には企画の日本経済新聞社)という日米関係の視点を打ち出したように思われました。当時にあっては写真家の著作権よりも強い編集権をもっていたスタイケンの意志で、山端の写真はスタイケンの意図した物語の文脈(ヒューマニズムにもとづく普遍的な人類の物語)にふさわしくないものとされ、また日本側実行委員会からも「あの長崎の被災写真は、事実としての興味が強すぎて、他の写真とくらべてみると、その表現が調和していない・・・ことを感じるようになった」(渡辺義雄「天皇陛下に関係はない」『サンケイカメラ』)といった発言がなされたそうです。

この問題については、報告後にもいろいろと発言や質問がつづきました。戦後の日米関係と両者の原爆認識の相違、スタイケンの「人間家族」の意図、そして日本における天皇への過剰反応、これらは別々のものではなくて、相互に関わっているのだという視点が必要なのかもしれません。

また、同時代にあっては「人間家族」展は必ずしも冷戦の片方の側のプロパガンダとみなされていたわけではなく(そうした批評自体が、ポスト冷戦の時代の産物といえるでしょう)、また、そうした批判を含めてそれでも今なお、多くの人びとが「人間家族」の写真を見つづけている(美術館の売店には写真集が置かれ、いまだに増刷されている)ことの意味をどう考えるかという質問が出されました。これは、なぜ「人間家族」をとりあげるのかという、土山さんの最初のモチーフと重なるものかも知れませんね。

他にも、1950年代の巡回展、現在のルクセンブルグでの保存展示、1990年代の巡回展、縮小版、簡易版等についてのプリントの違いが話題になりました。ここら辺は写真を専門としない私としては、なるほどそういう問題もあるのかと興味深く拝聴しました。


*     *     *

以上が大ざっぱなまとめですが、蛇足ながら、私の個人的な関心を二つほど付け加えます。
一つは、土山さんが、山端庸介の父・祥玉のG.T.SUN商会の戦中の大壁画「撃ちてし止まん」の制作などについても紹介、またアラン・レネの「ヒロシマ・モナムール」での山端庸介の写真の引用などを例に挙げられたことに関して。山端祥玉・庸介とつづく写真史のなかでの位置づけについて考えさせられ、そして、山端の写真を、恐らくは最も有名な原爆の表象の一つとして改めて捉え返す、つまり写真という枠組みを越えて捉え返すことの必要性を感じました。

私は原民喜の「夏の花」を読むたびに、まるで網膜→脳に焼きついた惨劇の様を記録したような、作者自身がカメラと化したような文章だと思わずにはいられないのですが、昨日、また読み返していたら被爆翌朝の光景についての一節が目に留まりました。

「・・・常磐橋まで来ると、兵隊は疲れはて、もう一歩も歩けないから置き去りにしてくれという。そこで私は彼と別れ、一人で饒津にぎつ)公園の方へ進んだ。ところどころ崩れたままで焼け残っている家屋もあったが、至る処、光の爪跡が印されているようであった」(岩波文庫判92頁)。

ああ、原爆は写真だったんだ・・・と改めて思ったことです。

もう一つは、以前から気になっていたテッサ・モーリス・スズキさんの「おにぎりを持つ少年」の写真について次のような指摘です。

「・・・おそらく放射能のせいだろう、損傷を受けている。・・・フィルムに影が入って下のほうがぼやけていることが、いっそう暗い雰囲気をかもしている。・・・フィルムに焼け焦げのような小さな傷がついている。そこで、これらの写真を展示するにあたっては、現在の技術を使ってこうした傷を”修正”すべきか否か、あるいは、どこまでそうすべきか・・・修復すれば、山端が見た通りに見ることになるのだろうか?それとも、影や焼け焦げそのものがこの写真固有のリアリティの一部なのか(以下略)」(『過去は死なない』岩波書店、2004年、110頁)。

そしてテッサさん自身は、影が写り込み、傷がついた修復前の山端の写真を、同書に掲載しています。

私自身は写真の技術的なことについては全く理解が不十分なので、テッサさんのこの文章を、<山端の写真に写り込んだ放射能の痕跡こそが重要なのだ、そこ
にこれらの写真の「真性性」があるのだから、安易に修復にたよってはいけないという意味なのかしら。でも、何だか変な気もするな>と漠然と思っていたの
でした(自分の本では「父が見たままの情景が甦った」とご子息の祥吾さんが言う修復版を使ったので、なおさら、ずっと引っかかってきました)。

今回、金子先生に、この影は単に撮影した状況の中で何かが写り込んだか、シャッターの送り、フィルム自体の問題(効果)、ネガの劣化の問題として捉えるべきだと言う指摘を受けて、すっきりとするとともに、写真を論じるということの技術的な側面の重要性と、何をオリジナルと考えるかという問題についてもあらためて考えさせられました。ありがとうございます。

http://shashinken.exblog.jp/i6
東日本大震災もあってか、次回開催のメールもまわってこなくなっていますが、その後どうなっているんでしょうか?会は自然消滅?


◇ 『人間家族(ファミリー・オブ・マン)』展の日本における受容

犬伏雅一
教授
芸術計画学科
平成 24 年度

 日本における受容問題を考察するにあたり、ま
ずは『人間家族』展が周知のごとく政治性を帯び
ていたという主張の中身を概括しておく。表層的
ヒューマニズム賛歌を掲げる『人間家族』展は、
第二次世界大戦後、すでに、本格的な冷戦が始まっ
て久しい 50 年代半ばにニューヨーク近代美術館
の当時の写真部長であるエドワード・スタイケン
によって企画、実現された。1955 年に展覧会が
開催されて世界に向かって巡回していく。この展
覧会そのもの、そしてその世界巡回展のサポート
には、財政面では米国の大企業が絡んでいる。た
とえば、コカ・コーラ社である。販促効果醸成
を狙った協力であることは自明であろう。また、
ニューヨーク近代美術館はロックフェラー家の大
きな影響下にあり、資本の論理が関与している
ことも見やすい。さらに、USIA(United States
Information Agency)という対外文化政策機関が
世界巡回の推進に能動的に加わっている。例えば、
アメリカ展の後、直ちにいまだ壁のないベルリン
での展覧会が実施されており、同展の開催は、当
然ながら東独市民を展覧会場へ誘導して米国の文
化的価値の普遍性と優位性をアピールしようとす
る対ソ文化戦の一環である。
 報告者は、日本における主催者の中心に位置
する日本経済新聞の記事、また、当時の主要な
写真雑誌の記事等をまずは足掛かりにして、受
容の分析に取り組んだ。その過程で、京都、大阪、
名古屋、広島、福岡などでの同展の開催が地元
紙などでどのように論じられたのかの言説分析
を継続的に実施した。この作業のなかから受容
の実相が次第に読み取られてきた。多くの場合、
ロラン・バルトのような反応は皆無であり、い
わばスタイケンの意に即して展覧会は解釈受容
されている。その無批判な態度にいささか呆れ
てしまうのであるが、そうした思いで受容言説
を追跡している過程で、同展の政治性について、
いっそう重層的にアプローチすることの必要性
を痛感させられる事実に気づいたのである。お
そらくそれは受容分析にもフィードバックする
はずである。福岡でのマイクロフィルムによる
調査で同展関係の記事を探査中に、この展覧会
と並行して開催されている『原子力平和利用博
覧会』(1956 年、7 月 6 日、福岡市因幡町福岡ス
ポーツセンター会場)に遭遇したのである。『人
間家族』展が原爆写真の展示、加えて昭和天皇
会場訪問に際しての同写真の展示をめぐりいろ
いろな議論を惹起してきたが、この展覧会を布
置せしめるべきコンテクストの中に原子力平和
利用のキャンペーンが組み込まれていたことに
我々は気づかなかったのではないかと思う。そ
の推進者は、USIS(USIA の海外での活動名称)、
福岡県、福岡市教育委員会西日本新聞社、後
援には、内閣原子力委員会科学技術庁、福岡
県 PTA 連絡協議会、九州電力が名を連ねている。
 USIS、つまりは USIA の対外宣伝性、しかも、
アメリカにとって、この時点において、事実上
疑似支配地域である日本におけるこの博覧会が
『人間家族』展と抱き合わせに推進されているこ
と、また、その後援に資本と政府機関のみでなく、
地方自治体に加えてメディアや PTA が絡んでい
る事実をどのように考察するかは、受容分析の
前提に波及する、政治性の異なった位相の存在
を示唆している。

http://www.osaka-geidai.ac.jp/geidai/research/tsukamoto/pdf/report/2012_17.pdf


◇ デモクラシーの写真、写真のデモクラシー : 〈here is new york〉展と〈The Family of Man〉展を中心に (アメリカン・セルフ・イメージ) 日高 優

Photographs of Democracy, Democracy of Photographs : Focusing on here is new york Exhibition and The Family of Man Exhibition (American Self Image) Hidaka Yu

https://www.rikkyo.ac.jp/research/laboratory/IAS/ras/26/hidaka.pdf


◇ ヴィクター・バーギン:Burgin art,commonsense,photography - photographology

 ベルトルト・ブレヒトはカメラを政治的には欠陥のある道具とみなしていた。彼が指摘するには、1枚の工場の写真は、そこで働いている人々の生活を支配している経済的諸力について何も語ってはくれない。ロラン・バルトは、『人間家族』展を論評する際に同様の指摘をしている。たしかに全世界において赤ん坊が生まれて母親が養育をしている、しかしその写真は、その子の生存率や出産後の母の死亡率について何も語ってはくれないのである。

 そうした論者――目立ったところではヴァルター・ベンヤミンを含めた――は、言語自体が政治的に特定の陳述を行なうためにもっとも巧く調整される道具であるのだから、写真はテクストに仕えることができるだけであると結論づけている。この想定は正しいのではあるが、結論のほうは、必ずしもそこから引き出されてくるとはかぎらない。「大人間家族」というエッセイで、バルトは写真が政治的な陳述を行なうことができないという点を非難しているが、同じエッセイの中で彼はその展覧会のことをまさにそうした(神秘化する)政治的陳述を行なっているという理由で非難しているのであるのである。

 スイスの養育院で母の胸に抱かれた赤ん坊の写真は、インドの田舎の村にいる母と子どもという人物像から同様のしかたで構成された写真の隣に置かれるかもしれない。一方で貧困を示し、他方で特権的な生活を示す明瞭な記号は存在しないとすれば、この2つのイメージはどちらも「母とその赤ん坊はどこにおいても同じである」ということを言っていることになるであろう。そうした独りよがりに人々を安心させるメッセージが、実際のところ『人間家族』展によって伝えられていたのである。キャプション、展覧会のタイトルが主に、すでに言われていたことを強調するのに役立っていたのである。この場合では、テクストが写真に仕えているのである。

 ここではイデオロギー的内容が形式的な工夫によって生み出されている。「母性の条件は、世界中で同じものである」というメッセージは、これらの写真のどちらかのみによっては容易に伝えることはできなかったであろう。2つの写真の並置のみがそうした内容を、これほどの明瞭さと目にされる自然の真実の直接性をともなって、生み出しているのである。このメッセージがイデオロギー的であるのは、たんにそれが述べていることが間違っているからというだけではない――たんに取り違えられているということは必ずしも虚偽意識の状態にあるということではない――、それがイデオロギー的であるのは、それが、「そこに投入されたある特定の利益関心に役立つように」世界の現実的な物質的条件を誤って表象している〔misrepresent〕からである。

 私たちは「形式」と「内容」という別々の語を有しているから、それらがまったく異なる経験の領域を表していると思い込む方向へと誤って導かれがちである。しかし、形式なくしては内容はなく、内容を形作ることのない形式は存在しないのである。「芸術家」と「活動家」は、どちらも言語によって私たちに与えられた世界像によって誤って導かれているという点で、同様に同じ美的イデオロギーに住まっている。芸術家は、自分たちがまったく内容の無い純粋な形式の世界を提示することができると思い込み、活動家は、形式的な考察に関わりなく圧倒的に迫ってくる「真実」の自律的な力を信じ込んでいる。もし私たちが写真家の「言っている」ことに携わるなら、写真が何事かを言うことを可能にしているさまざまな工夫――目立たぬまま通り過ぎるほど私たちにはなじみの工夫――を検討することは私たちには甲斐のあることであろう。

http://homepage1.nifty.com/osamumaekawa/Burginartcommon.htm