Übungsplatz〔練習場〕

福居伸宏 Nobuhiro Fukui https://fknb291.info/

栃木県立美術館「画像進化論」 - SPEAKING ABOUT ART

栃木県立美術館で「画像進化論ーメディア的進化と創造的退行のダイナミズム」展。ほとんどの出品作が栃木県美の所蔵品というコレクション展ではあるが、ピーター・ガラシの「写真以前」などを援用しつつイメージの進化をテーマとした一風変わった展覧会。会場入り口に簡単なあいさつのパネルがあるだけで、他に展覧会趣旨や作品を説明したパネルは皆無。しかし、細かいテーマ分けはいくつもあって、「遠近の擬態」「熱学的画像」「視覚的断崖」といった俄かには意味を図りかねる小テーマ名が壁の上部に書かれているだけ。そもそも「画像進化論」という展覧会全体のテーマも馴染みのないものだし、細かいテーマ分けも抽象的なので、展示を見ただけでは担当学芸員の展示コンセプトを完全に理解するのは不可能だろう。

http://cezannisme.blog136.fc2.com/blog-entry-10.html


◇ 2011-08-18 - 偽日記@はてな

栃木県立美術館の「画像進化論」は、企画者の意図がどうあれ(図録に掲載されている山本和弘によるテキストにぼくはほとんど同意できないし、つっこみたいところも多々あるのだが、それでも)、いろんな作品が観られて楽しかった。やっぱホックニーのジョイナー写真はすげえと思ったし、いままであまり興味がなかった山中信夫を面白いと発見したりできた。ただ、気になったのは、キュレーションは、どこまでやっていいのか、という点だった。


展覧会を企画し実現するということは、ある文脈をつくり、その上に作品を配置してゆくことになる。つまり、ある企画された展覧会のなかで展示される作品には、あらかじめ企画者による色付けがなされている。このことは否定しようのない事実であるし、それを否定しても仕方がない。作品が具体的に(空間上、文脈上の)「どこか」に配置されなければならない以上、完璧に中立的な展示、あるいは、完璧に作品に忠実な展示というのは原理的にありえない。あるいは、作品が、企画者によってあらかじめつけられた文脈のなかに埋没するのか、それを越え出る別の可能性を示せるのかは、個々の作品の力(と、個々の観者の「見る力」)にかかっている。

http://d.hatena.ne.jp/furuyatoshihiro/20110818


◇ 「サルからヒトへ、そしてスペクタクルの社会 画像進化論 - メディア的進化と創造的退行のダイナミズム」@栃木県立美術館
開催中〜9/19(月)
http://www.art.pref.tochigi.lg.jp/exhibition/t110723/index.html