Übungsplatz〔練習場〕

福居伸宏 Nobuhiro Fukui https://fknb291.info/

VIA YOKOHAMA 天野太郎 Vol.16 | 創造都市横浜

第16回:個人史が歴史になる時 沖縄の写真家、石川真生をめぐって

1975年から石川は、沖縄に駐留する黒人の米兵を最初の撮影対象にする。当時石川が決意した「沖縄を撮る」ということは、彼女にとって、すなわち アメリカ軍=米兵を撮るということを意味していた。とは言え、何のコネもない石川は、米兵が出入りする外国人バーで働くことにした。最初から黒人兵を撮る ことを目指したわけではなく、知人からの紹介で働き出したのが、たまたま黒人兵のバーだったのだ。そして、彼らの闊達な生活ぶりと、黒人同士の絆の深さに憧れも感じたという。後年、石川は、彼らが、拳をふり上げたり、仲間同士の独特のゼスチャーが、当時本国アメリカで主流となりつつあったマルコムXをはじめとするブラックパンサーの影響であったことを知るのだが。そもそも沖縄の人々にとって「敵」でもある米兵は、彼らもまた国家権力によって巻き込まれた(この場合、ベトナム戦争派兵)当事者ではある。しかし、当時の石川は、そうした「政治的に正しい」行為や判断をしていたわけではなかった。ただ米兵、とりわけ黒人に対する偏見を持たずにストレートに彼らにアプローチしたのだ。その後の、保守、革新、右翼、左翼、といったイデオロギーは言うに及ばず、性差もまた超えて、個々の人間に偏見なくアクセスする石川の姿勢は、この時から現在に至るまで貫かれている。この意味で、写真集「熱き日々inキャンプハンセン」は、決してルポルタージュでもなければ、ジャーナリスティックなドキュメンタリー写真でもない。

最初の写真集「熱き日々inキャンプハンセン」は、出版後、消息の途絶えた女達から、それぞれの新たな生活のこともあり、かつての赤裸々な生活を伝えたこの本の存在に異議申し立てを受け、公開を取り止めることとなった。また、1978年に結婚した夫からも、1982年にこの写真集を出版することに猛然とした反対を受けた。その反対を振り切り出版を決意した石川は、当時2歳の娘を連れて夫のもとを去る事になる。そうした時も石川の父親は、黙って娘真生の判断を尊重する人であったと石川は述べている。写真に興味を示したりすることもなかったが、しかし石川の進む道を阻むこともしなかった。

http://yokohama-sozokaiwai.jp/column/2050.html