Übungsplatz〔練習場〕

福居伸宏 Nobuhiro Fukui https://fknb291.info/

ソーシャル・ランドスケープ関連おさらい

◇ 「社会的風景」にみる 写真表現――リー・フリードランダーの場合(日高優)より

 そもそも「社会的風景」という言葉の起源は、写真家リー・フリードランダーに帰せられる。この言葉はフリードランダーが「セルフ・ポートレート」の新しい表現を追求するなかで、「実験的に仮の仕方で」持ち出した言葉だ。だが、このときフリードランダーが「社会的風景」と呼んだのは、「風景」として一般に想起される写真ではなく、オスカー・ギュスターヴ・レイランダーやベレニス・アボット、ジュリー・ユルズマンといった「他の写真家達の最良のポートレイト群」だったのである。しかしなぜ、フリードランダーは「ポートレート」を「風景」と呼んだのだろうか。

 実際上、「社会的風景」という言葉を見出し、時代の写真の潮流を評定するものとして新たに提示しなおしたのは、ネイザン・ライアンズである。ライアンズは一九六六年、ジョージ・イーストマン・ハウスのキュレーターとして、写真展「コンテンポラリー・フォトグラファーズ──社会的風景にむかって」を開催した。ライアンズは写真展の企画に際して、「社会的風景」という言葉を借り出し、その意味内容を詰め替えたのである。そして、この写真展のタイトルが「社会的風景」の語を普及させることになった。今日、フリードランダーに帰されるべきこの言葉の起源はほとんど語られることなく、一般にはライアンズの用語として定着している。

 ではなぜ、<風景>が問題なのか。それは、ある時代の「風景」写真を見るということがその時代の写真家たちの評価システムをみるということにほかならないからだ。単なる空間の断片が「風景」として見出される背後には、歴史学者アラン・コルバンが述べるように、美などの価値の評価システムが存在する。つまり、ライアンズは「社会的風景」という言葉で代表的な写真家たちを括ってみせることによって、この時代の物の見方、考え方をあぶり出したのだ。

では、写真展企画者であるライアンズは、どのように「社会的風景」を語っているだろうか。「社会的風景」の語によって新しい写真のジャンルを作り出そうと意図しているのではないと、ライアンズはいう。「社会的風景」とはドキュメンタリーや社会的リアリズムといったカテゴリーを超えるものであって、ある風景に「むかう」写真家のスタンスや写真家に担われる時代の思考を評定するものなのだ。

京都造形芸術大学編『現代写真のリアリティ』(角川書店)所収
http://www.amazon.co.jp/dp/4046515082


◇ CONTEMPORARY PHOTOGRAPHERS: TOWARD A SOCIAL LANDSCAPE - 森岡書店

CONTEMPORARY PHOTOGRAPHERS
TOWARD A SOCIAL LANDSCAPE

この商品は売り切れです。

New York and Rochester: Horizon Press and The George Eastman House, 1966 Soft cover 20.5×21.7 67p
Bruce Davidson; Lee Friedlander; Garry Winogrand; Danny Lyon; Duane Michals; Edited byLyons Nathan
表紙に経年の汚れと見開きに小さい書き込みがあります。

http://www.moriokashoten.com/?pid=12286585


◇ ライアンズとシャーカフスキーにおけるウィノグランド受容 - Man IIYAMA Photo and Design -飯山満(いいやままん)商店-

 二つの重要な展覧会 
1:「コンテンポラリー・フォトグラファーズ−社会的風景に向かって」(ソーシャルランドスケープ展)、ネーサン・ライアンズ監修 1966年
2:「ニュー・ドキュメンツ」、ジョン・シャーカフスキー監修 1966-67年

 両展覧会のキューレターである二人の写真観の違い、特にいわゆる『Life』に代表される報道写真でない写真における社会性・同時代性の解釈。この中で注目すべきは、両者からそれぞれの解釈で選考されているウィノグランド。
 シャーカフスキーは、一つのフレーム内で写真によって完結できる(写真でしか見えない何かを生み出す)ある種構成的な写真の理想をウィノグランドに見、ライアンズは、フレーム内に収まりきらない関係性の豊かさを見た。

 シャーカフスキー的写真は、しっかりした感じ。写真としての積極的な強さがある。こう撮れる人がいるのだから、こう撮らなくてはいけないと思わせる写真。
 一方ライアンズ的写真は、撮る側も見る側もこれでいいのか?と思わずにはいられない写真。悪く言えばつまらない、ちゃんと読まないと何もなく見える写真。逆に後の世代の撮影者の立場で言うと、これでもいんだよ、と典拠を求めたくなる写真でもある。

 同じウィノグランドでも、こうも見え方が違うのだろうか。また、ライアンズ自身が撮影した写真のいい意味で「つまらなさ」。結構こういうの撮りたかったけど、どうしていいか自分も周りも分からないような写真。これを今あえて撮るならば、相当強力な作家性がないと継続は無理なんだろうな。

 今度ふたりにウィノグランド受容の違いについて聞いてみよう。

http://www.iiyamaman.com/archives/200811/winogrando
「Towards a social landscape」と「New Documents」の違いは、とても気になるポイント。
どちらかというと言説よりもむしろ写真のセレクトと展示方法が気になります。


◇ III 溶解していく現実 - 重森弘淹『写真の思想』

この3,4年来、「コンポラ・フォト」と称する傾向が、若い写真家たちの気持をとらえている。日本で「コンポラ・フォト」が正式に自己の座を獲得するのは、『カメラ毎日』(1968年6月号)で、そのことについて論じられて以来である。「コンポラ・フォト」、正しくは1966年、アメリカのホリゾント・プレスから発行された『コンテンポラリー・フォトグラファーズ』の略称で、「同時代の写真家たち」という意味であることはいうまでもない。1967年にはその第二集が出版されている。しかしわが国で「コンポラ・フォト」という場合、第一集の「社会的風景に向かって」というテーマに沿って集録された一連の傾向を指している。

ここにはすでに気鋭のアメリカにおけるドキュメンタリストとして知られているブルース・ダヴィッドソンをはじめ、デュアン・ミカルス、リー・フリードランダー、ダニー・リヨン、ケリー・ウィノグランドといった、いわばオフ・マガジンの写真家たちが顔を並べている。しかし1966年、この写真集が登場したころ、すでに日本でもひそかに「社会的風景」を志向する写真家が出てきていたのであり、その点で意図しなかった同時代的な傾向として注目してよいだろう。

しかし当時の日本の「社会的風景」派は現在写真から遠ざかってしまったスイス生まれのアメリカの写真家、ロバート・フランクの影響によるものと考えてよく、またわたしなども、従来のイベント中心のいわゆる報道写真にあきたらない気持から積極的に後押ししたのであった。

http://shigemorikoen.com/koen/ss/03.html
*1


◇ 国家公務員3種模擬試験 - LicenseWorld

たとえば、伊藤俊治の文章を引用すれば「写真は都市のメディアである。写真が都市を挑発し、都市が写真の機能を変えた。写真は都市の感受性を背負っている。たとえ自然を写している時でさえ、それは都市の意識によって枠どられ、ソーシャルランドスケープとなる。」

http://www.licenseworld.co.jp/cgi-bin/lic.cgi?Type=55
ねじれ。あるいは、リフレクション?


◇ フォト・ドキュメンタリー 「NIPPON」2006 対談:鷲尾和彦 × 鳥原学

鷲尾:僕はダニー・ライアンって写真家が好きです。5年程前に彼の家まで
訪ねたことがあります。彼は今からちょうど40年前の1966年にジョー
ジ・イーストマンハウスで開催された『Toward A Social La
ndscape』展に参加して注目されましたよね。従来の記録のためのド
キュメンタリー写真ではなくて、私的な視点から身の回りの社会的風景を撮
影して、'60年代以降の新しい写真の可能性を呈示した。今は当時とは時代
が違うけれど、「ソーシャル・ランドスケープ」って視点は、僕自身にとっ
ては今とても意味がある気がしています。今回の『フォト・ドキュメンタリー
「NIPPON」』に参加したいと思ったのもそんな理由からでした。誰も
が写真を撮る時代の中で、それでも何故写真を撮るのか、そのことを考える
と、やはり社会に積極的に関わっていくという視点、しかも世の中で既に流
通している記号を捨てて、自分なりに社会を見ていくという視点、やはりそ
れをどれくらい強く意識できるか、ってことじゃないかなと。


鳥原:「私写真」っ
て一時期ちょっと言
いすぎましたよね。
「私写真」って「私」
を成り立たせている
ものについての写真
と考えなくてはなら
ない。つまり他者を
排除して、「私」の
感性、「私」の生活、
「私」の愛というも
のだけになってしまった気がする。「私」とは何か、「私」と社会との関係
を撮り直さないといけないし、そういうものが見えないと写真ってつまらな
いと思う。恐らくダニー・ライアンはそういうことで撮り続けているんじゃ
ないかな。

http://74.125.153.132/search?q=cache:_l_eHcKyp4oJ:rcc.recruit.co.jp/gg/nippon/pdf/docu_taidan_wasio.pdf+%83

*1:ワイドレンズであえて引いて撮るという手法について
  とっくの昔にちゃんと語られていることを今さらながら知りました。
  http://d.hatena.ne.jp/n-291/20061226#p8