Übungsplatz〔練習場〕

福居伸宏 Nobuhiro Fukui https://fknb291.info/

Exercises de Style (音の「無名状況」)

 以前筆者は、「弱音系」「微音系」「無音系」などと称されることになる動向が、代々木のギャラリー/フリー・スペース、オフサイトから、その立地条件による音量制限という外的条件によって半ば必然的に導かれたものである、という主旨の文章を書いたことがある。もちろん、そうした外的条件が重要な要因であったことは確かだと思うが、しかし、あくまでもそれはひとつの機縁としてとらえられるべきだとも考えている。オフサイトという、ある意味特殊な場所が、ある動向の形成に寄与することによって、こうした日本の状況に先立つ、あるいは同時多発的に起こった、同様の指向性を持つ表現者の発見や出会いが準備されたということと、そうした動向が胚胎されたことが「半ば必然的」であったことが、当事者たちに、それがなんであったのかを事後的に考察する機会を与えたということではないか。この誌面において実作者からのけして短くはない論考が、こうして活発に発表され続けているということがそれを証明しているだろう。
 この小論では、冒頭にあげたような、近年のサウンド・アートおよび実験的音響/音楽作品の分野において特徴的な一動向である、微弱音による作品や音の発される部分よりも多くの無音部分を含むような作品、あるいは極小の作為によって制作されているなどの一連の作品の中にみとめられる傾向をとりあげる。そして、「つくることの否定」を通じた「もの」の作品化を標榜した戦後日本美術における重要な動向のひとつである「もの派」の代表的作家菅木志雄の言説や、それに類すると思われる美術家およびその作品について筆者が書いた過去のテキストを参照し、それら音響/音楽作品へ適用し考察する。そうすることで、それらの(必ずしもそれだけとは限らないが)聴覚的作品に、もうひとつの解釈の方法を与えようとするものである。
 ただし、これは状況論的な考察ではなく、あくまで試論にとどまる。それは、筆者がそのような詳細な状況分析による考察を行なうには、この現在進行形の音楽動向を把握するのに必要な作品や演奏に立ち会うという経験が足りないからであり、そうした動向は、録音によって作品化されるものにもまして、日々各所で行なわれている演奏会などの試みにおいて、その実験性および試行錯誤は顕著に表われるものだからだ。

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