Übungsplatz〔練習場〕

福居伸宏 Nobuhiro Fukui https://fknb291.info/

菊地成孔×佐々木敦『ゴダールシンポジウム』レポート - 映画インタビュー : CINRA.NET

また僕は、大谷能生君との著書『アフロ・ディズニー』の中では「視聴覚の齟齬」を切り口に20世紀文化史を語ろうと試みています。「視聴覚の齟齬」とはつまり、見ることと聴くことは元来全く別のものだということです。

映画を例にとれば、キャメラは我々の眼球のメカニズムを模範にし、見えているものを映し取ることができる。しかし、マイクというものは鼓膜のメカニズムと異なり、我々が普段耳から音を聴くようには現実世界の音を選択して録ることができないという、テクノロジーとしての「視聴覚の齟齬」があります。

このことを語るに際し、今からいくつかの映像を見てもらいましょう。

ウォルト・ディズニー長編映画第一作『白雪姫』(1937)上映


菊地:こちらでは、音と映像中のキャラクターの動きがピッタリ合っています。この現象をミッキーマウシングと呼びます。

本来、視覚と聴覚は全く別の世界を知覚しています。それが「視聴覚の齟齬」なのですが、我々は成長するにつれ、見ることと聴くことを同期する修正能力を獲得していく。このミッキーマウシングの状態は、その同期の極致です。ミッキーマウシングが、我々に、まるで幼児期に戻ったような万能感をもたらしてくれるのはそのためです。

http://www.cinra.net/interview/2010/08/17/000000.php

僕が映画評論家だった時代の最後に書いた『ゴダール・レッスン』には、「あるいは最後から2番目の映画」という副題がついています。この「最後から2番目の映画」というのは、ゴダールは映画が終わることの可能性を切り開き、自分をそのひとつ前に位置付けることによって、映画の終末をポジティブに捉えようとしているのではないか、という考えに依拠した言葉です。

けれど、この本を書いてから17年経った今、また新たな考えが浮かびました。もしかしたら、ゴダールは『映画史』によって、本当に映画を終わらせてしまったんじゃないかということです。我々は、それ以後のポスト・ヒストリカルな映画の時代にいるのかもしれない。

これは、何も映画だけに限らず、音楽や文学を語る上でも同じです。ある芸術の誕生以来の「歴史」が、既に一度終わったものだと語ってしまえる風潮が、20世紀の後半から起きていた。しかし、それでも時間の流れという意味での歴史は存在しており、もちろん我々もまた、その歴史の中で生きている。それが現在の状況ではないでしょうか。

http://www.cinra.net/interview/2010/08/17/000000.php?page=2

佐々木:無限とも思えるようなものを有限に整理しなければならないという状況下で、普通なら効率的な方法を探るはずなんだけど、そんなこと無理だと開き直るような振る舞いがゴダールらしさでもありますね。ただ、僕が興味あるのは、そもそもなぜそんな状況になっちゃうの? っていうことなんです。そこにこそ、ゴダールの病理があるように思うんですよ。

菊地:お宝を自分の玩具にしてしまう癖があるゴダールだけど、唯一そこに苦しみが感じられるのが『女は女である』の音楽の扱いなんです。80年代ゴダールは、同じことをしていてもなんだか楽しそうなのに対して、『女は女である』は映画も音楽もハッピーな雰囲気なのに、ゴダールにとっては地獄みたいに思えてしまう。終盤の延々と続く痴話喧嘩のシーンでは、もう余ったから適当に並べよう、みたいになってるし(笑)。

菊地成孔×佐々木敦ゴダールシンポジウム』レポート
佐々木:そのシーンのためにつくってもらったわけじゃなくて、あったから使っちゃったという感じでしょうね。

菊地:そもそも映像と音楽は、嫌でも合ってしまうものなんです。それは我々に備わっている齟齬を修正する能力のためなんですが、『女は女である』の一部には貴重な違和感がある。

佐々木:映画の音楽を担当したことある人はみんな言いますよね。なんでも合ってしまうって。

http://www.cinra.net/interview/2010/08/17/000000.php?page=3

佐々木:菊地さんのプレゼンテーション中にもあった、ズレと同期に関しては、映画と現実についても言えますよね。映画が同期しているように見えるのは、人工的なテクノロジーによって可能になっているだけで、本来の現実はそうではない。菊地さんの場合は、そこから「そもそも現実が非同期なんだ」という論を推し進めている。その非同期を認めてしまったら、我々は狂ってしまうと。

菊地:その通りです。ゴダールの他に、ペドロ・コスタポルトガルを代表する映画作家。主な監督作に『ヴァンダの部屋』など)を例に挙げれば、彼の『コロッサル・ユース』はキャメラとマイクが一体化したDVキャメラで撮影していて、それをそのまま使えば現実に近い世界を切り取れるにもかかわらず、画は画で撮って、音はまた別で録っている。さすがにシンクロしているんだけども、作品中でズレていないから無意味というわけじゃなくて、別々に撮(録)ることこそが重要なんだと。

佐々木:そうですね。映像と音が別々にならざるをえない、というのが映画本来の宿命でもあるのに、それらを同時に手に入れてしまえる現状は、映画の在り様としてはいかがなものかと思います。それにペドロ・コスタは疑問を投げかけているんですね。

http://www.cinra.net/interview/2010/08/17/000000.php?page=4