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福居伸宏 Nobuhiro Fukui https://fknb291.info/

[資料 2016-04-29]畠山直哉写真展「陸前高田 2011-2014」@ニコンサロンでのトーク+α

◇ Nobuhiro Fukui(@n291)/2015年04月08日 - Twilog

先日の銀座ニコンでの畠山直哉さんのトークでは、とても基本的な事柄がいくつも語られていたのがよかったです。個別の問題自体は大きなものも含んでいたりもしますが、それについて一度も熟考したことがない、というのであれば、「写真」というジャンル特有のスコトーマの存在を疑うべきなのでしょう。

2013年8月以降、ほぼ日本の雑誌を読むのをやめたため、現在の言説の布置についてはあまりよくわかりませんが、日本的な写真のモダニズムについての批判(自己批判を含む)が行われていたのが印象的でした。震災以前/以降の畠山さんの変容についてあれこれ言われることが多いのかもしれませんが。

モダニズムというゲーム(見えない言語=コードの共有による)への批判、写真と言語を分かつことへの批判、1920年代的なものを面白がることへの批判(e.g.ファウンドフォト)、Beautyを忌避することへの批判(私はArtにとってBeautyは一番大切なものではないという考えですが)

などが行われていて(美と関連して善悪についても)、穿った見方をすれば、日吉(東京綜合写真専門学校)的なディシプリン、自身のルーツでもある大辻清司的な価値観、近年のホンマタカシさんや金村修さんの作品・言説を含む活動などに対する、自分の立ち位置の表明が行われていたようにも思いました。

畠山さんの今回の展示についてはトーク後の大混雑の中で、写真の掛けられている壁3面のみをザッと拝見したため、写真と言語(プリセット状態を扱う手捌き)という意味では取りこぼした部分があり。しかし、2段組・時系列・日付けありでコの字型に壁を使った展示の構成については、10分程度とはいえ

それなりに見ることができたのかなと。写真美術館での個展の3段組・壁3面との違いは明白で、写真のセレクトの変更に伴い、水平線を消す写真が要所要所で入ってきたということ。すなわち、その扱いに留意しなければ、撮影主体の存在が不用意に立ち上がってしまいかねない、特定の対象を見下ろす写真、

見上げる写真が入ってきたということ。覧会場入って左側すぐのA4の紙数枚にわたるテキストの内容次第で、主体の濃度の扱いや写真から生じる意味が変わってくるため注目すべきポイント。このあたりはいずれ発売される写真集を拝見するときに改めて考えてみたい事柄。そして、水平線を消すことの意味を

翻って考えてみると、2011年当時の写真美術館での陸前高田の展示構成には、やはり畠山さんなりの心理的防衛機制がはたらいていたのではないか?ということ。対象との一定の距離を保つ視点の保持によって、はからずも背負うことになってしまった個人的な「物語」と写真との距離を担保しようという

意識が当時は強くあったのではないでしょうか。そうしなければ畠山さん自身、精神的に持たなかったのかもしれませんし。今回の個展には、肉親そして生まれ育った家を喪失するという、とても重い経験が、畠山さんの中でも幾ばくか整理されてきたことが現れているように思えました(最初の壁で3分)。

http://twilog.org/n291/date-150408/allasc


◇ Nobuhiro Fukui(@n291)/2015年04月09日 - Twilog

畠山直哉さんのニコンでの個展で意図が読めなかった写真は、会場入って右の壁(コの字の奥の壁)の左下隅に展示されていた作品ただ一点。展示の中でのこういった特異点は、作品を読むうえでさまざまな示唆を与えてくれるものであったりすることもあるのですが、今回については前後の関係や写されている

イメージから読み取れるものが少なく、かりに仮説を立てることができたとしても、その根拠は非常に脆いものになってしまうのでは、と感じてしまうような状態。色彩的にも、薄暮のロマンティックな光を好むかのように思われる畠山さんのスタイルにしては、ビビッドで原色的な緑の色彩が画面の大部分を

占めるこの写真は、ちょっと奇妙な印象を受けるものでした。そうした場合、個人的な記憶なり思い入れなりによって撮影・選択されたものだと判断すれば良いのでしょうが、どうにも判断し難いといった印象。“なんとなく”はあり得ない作家ですが、それが“なんとなく”であったとしても、“なんとなく”

であることを許したという判断があるわけで、そこが気になったりもしました。Twitterはこうしたことに向かないので(知人友人と話せば10分以内)、このくらいにしますが、なぜこのような作品 https://twitter.com/n291/status/561795902612848641 を構想したかというと、本当に展示なり作品なり

を、展覧会に足を運んだ人々は見ることができているのか?という問題があったりします(「これからの写真」の会場写真を集めて、スライドと音声による映像作品にすることを考えていましたが素材不足のため塩漬け状態)。WS参加者や知人友人に「これからの写真」の最初の部屋を見てどうだったのか意見

を求めるようにしていますが、数分見ればわかることすら読み取れていないことが殆どで(それは著名作家の著名作品だからそれを確認する程度にしか見ていないということもありますが)、畠山さん自身もけっこうガッカリしたのではないか、と思っていたりします(煎じ詰めれば熱力学第二法則と人間?)。

Birdの36枚撮りモータードライブ中、あの選択あの見せ方とか、会場の動線の双方向性とかいろいろありますが、明らかに東日本大震災以降の畠山さんの意識(時間の不可逆性等)があの展示には反映されていると思っていて、あるいはそのように精緻に読むことができると思っていて、といったところ。

http://twilog.org/n291/date-150409/allasc