Übungsplatz〔練習場〕

福居伸宏 Nobuhiro Fukui https://fknb291.info/

[資料 2018-02-13]山崎雄策「(佐藤愛)」「ERROR ROOM No.3」@ 千葉市民ギャラリー・いなげ についての雑感

◇ Nobuhiro Fukui(@n291)/2017年05月07日 - Twilog

山崎雄策 「(佐藤愛)」「ERROR ROOM No.3」@ 千葉市民ギャラリー・いなげの最終日に駆け込み。山崎さんにいろいろと話を伺ったり、話し込んだりして、閉館の時間まで楽しいひととき。TOP MUSEUM(東京都写真美術館)の山崎博「 計画と偶然」は見逃し確定ですが、

まあそれも仕方ないのかなと(リニューアル開館後まだ訪問できていません。そもそも都写美に限らず展覧会を見逃しまくりなのですが)。そもそも、今日時間がとれたのもかなり偶然の出来事。山崎雄策さんの新作「ERROR ROOM No.3」は、手法とねらいはシンプルなものでありますが、それを

どう評価すべきなのかは、難しい問題なのかなと。レベルが低い世界であれば、それでも“面白い営み”として賞賛されるのかもしれませんが(方向性としてはレアなものではなく、より細かい内容、どこをどのようにが、明確であることが求められるでしょう)、それを本来求められるべき水準で考えた場合、

やや曖昧さが残ってしまい、その曖昧さが上手く機能しているのかどうかについても(最終的には、「論理」ではなく「感覚」(何とも割り切れない感触、言語には落とし込みづらいもの[フェティッシュやマスキュリンな“眼差し”に単純に回収されるのであれば、わかりやすいのでしょうがそれとは異なる]

等々)を、というのが伝わるのかどうかが必ずしも明瞭ではない)、やや難しい部分がある。ゆえに、作品以外の要素(今回の新作はフレーム=パレルゴンを扱っているのですが)、例えば山崎さんの趣向性や制作にあたってのスタンスを知らない場合、ある程度ものを知っている人は、非常に厳しい評価を下す

という可能性も排除できないものではあったのかなと。その一方で、やはり作品の細部まで細かくケアがなされていて、そうした部分も含め、やっぱり気になる作家だというのは、個人的には動かない評価。ただ、曖昧さ、良く言えば、作品の開放性とも言える、が、日本的なあるカルチャーに対して、意識的に

であれ、無意識的にであれ、ある媚態を示しているのであれば、それについては、私としては批判するほかないのかなと。こういった仕立てでありながら、リサーチ・ベースでもなく、制度批評とも言い切れない、といったことを、もし肯定的に考えるのであれば、イノベーションが必要なのかもしれませんが、

そのときにありがちな言語的な操作(それを“批評”などと言ったりもする)を撥ね退けて、それでもなお、残存する部分こそが、山崎雄策さんの作品全体に通底するもので、そのことについて改めて考えてみたいと感じさせられたのが、本日の収穫。サイト・スペシフィシティ、フレーム、紙の鏡、

視線の一方向性とその反射、プロジェクション、メディウム=媒体=霊媒、過去と現在、ステージドとポストプロダクション、テイクとメイク、パブリックに設定された“ローカル・カラー”等々といったことを含め、論脈は多数。でも、ご本人の性格として撒き餌ではないのが、また逆に判断に悩む部分。

ペルソナ・ノン・グラータでもないですが、本人がもっと自覚的な胡散臭さ、“プレイヤー”的性質(百頭たけしさんにも言えることですが、例としては必ずしも的確ではないものの、リチャード・プリンス的な、他を意に解さない人でなし的な態度)をまとっていた方が、作品が機能しそうだったりとか。

http://twilog.org/n291/date-170507/allasc


◇ Nobuhiro Fukui(@n291)/2017年05月09日 - Twilog

山崎雄策さんと話していて、もちろんElad Lassry http://twilog.org/n291/search?word=Elad%20Lassry&ao=a の話題になったり、Shirana Shahbazi、Annette Kelmらの2000年代の展開の話題になったり。最終的にRoe Ethridgeについて、いろいろと話した

ものの、いまから反芻すると、Fuge (state)のことを忘れていたり、Paul Outerbridgeのことを話し忘れたりといった体たらく。BaldessariからGoldstein、Wellingを経ての話しも上手く伝わったのかどうか。あと、2000年代という意味では、

Walead Beshtyの情報も伝えられれば良かったのかなと。ちなみに、海外で山崎雄策さんが同様の展示をした場合にサイトスペシフィックではない角度から比較されるかもしれない(もちろん作品の内容、批評性という意味では大いに異なる)、ヴィクター・バーギンのターナー賞候補作は次を。

【Victor Burgin「Office at Night」(1986)】
https://www.google.com/search?q=Victor+Burgin+Office+at+Night&source=lnms&tbm=isch&sa=X&ved=0ahUKEwjxgc7n3eDTAhUGVrwKHbp-AfoQ_AUICigB&biw=1436&bih=803

リンク切れ補足。【Neil Winokur - Google 検索】https://www.google.com/search?q=Neil+Winokur&tbm=isch&tbo=u&source=univ&sa=X&ved=0ahUKEwi-1PTR2uDTAhVFTLwKHW2SCeUQsAQIJg&biw=1436&bih=803 ※ちなみに、エラッド・ラスリーの他にも額の色をカラフルにして作品の構成要素として扱う1980年代作家も、確か何人かいますが名前を失念。

http://twilog.org/n291/date-170509/allasc