Übungsplatz〔練習場〕

福居伸宏 Nobuhiro Fukui https://fknb291.info/

部分的に再録&一部引用を追加(http://d.hatena.ne.jp/n-291/20070227#p3)

ミュンヘンのハウス・デア・クンストでアンドレアス・グルスキーが新作展を開催中

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※『美術手帖』2005年11月号に掲載されている大森俊克氏のドイツ写真批判
 「ドイツ写真とグローバリズム」を要再読。
 部屋の中をちょっと探したんですが見つかりませんでした。引用する時間もなし。
http://www.bijutsu.co.jp/bt/0511/si.html
http://www.fujisan.co.jp/Product/2196/b/81750/


※深川雅文氏の「サイトグラフィックス考」
http://park14.wakwak.com/~pg-web/log_sg.html


※79 アンドレアス・グルスキー展 ニューヨーク近代美術館 深川雅文 2001/04/19 00:07

現在、ニューヨーク近代美術館アンドレアス・グルスキーの大個展が開催中である。(キュレーターはピーター・ガラシ)期間は3/4/2001-5/15/2001まで。連休中にでもニューヨークに行かれる方は一見の価値があるだろう。カタログは、すでに本として出されており、たとえば渋谷パルコ下のロゴスの店頭に積まれていた。なお、同僚のシュトルートは、現在、日本での展覧会も一段落して休養中とのことだがすでに2年後、アメリカでの大個展の計画が決定したという。メトロポリタン美術館、シカゴ現代美術館などで開催される予定。ところで、杉浦邦恵さんと先月お会いしたときに、グルスキーの展覧会の話題が出た。面白かったのは、グルスキーの展覧会について、先生のベッヒャーが新聞で酷評していたということだ。このことは、ベッヒャーとその弟子たちの仕事の関係をどう評価するかという根本的な問題に深く関わっていると僕は思っている。そのうち、場所を見つけて書くつもりだ。

http://park14.wakwak.com/~pg-web/log1-100.html


※グルスキーの風景 - artshore 芸術海岸
http://artshore.exblog.jp/2535278/


※写真の現在 - ARTOPE
http://artope.seesaa.net/article/9850473.html


※対談 杉田敦伊奈英次

伊奈◆いやもう少し話そうよう。キミは今、西洋が内省して自身の腐敗を見出したけど、日本はそれ相当のことができていないというようなことを言ったけど、ひとつにはそれは、アジアあるいは日本と西欧という視点から見ているというのが問題なのかな。例えば、日本からは本当に死角になっているといってもよいイスラム文化圏があるよね。過激派が頻発させるテロ行為には弁解の余地がないとしても、西欧優位の図式のなかで、精神的な意味で学ぶことは少なくないというか、それこそたくさんある。


杉田●そう、それはテロリズムなどよりも、何気ないことで一気に感得される。例えば、スペイン南端のアルヘンシラスからフェリーに乗ってジブラルタル海峡を渡ってタンジールに入れば、きれいに偶像がなくなる。イスラム世界は偶像崇拝が禁止だからね。だから、コースを逆に辿ってスペインで宗教画でも見た日には、ポンチ絵に見えてしょうがないわけ(笑)。タンジールが政治的に特殊な状況下にあったということもあるけど、今世紀の初頭に、不良ヨーロッパ人はみんなあそこを越えていくわけじゃない?


伊奈◆キミの好きなボウルズも、コースは異なるけどランボーもそういってよいよね?


杉田●そうだね。しかも、これはあまり言及されることはないけど、写真の原型とも言われるカメラ・オブスキュラは、最初バクダッドのイブン・アル・ハイサムという自然科学者によって構想されてるんだ。


伊奈◆そうか、そういう視点から見れば、写真やアートについて評するということ自体がポンチ絵のような気もしてくるよね。ところで、いきなり写真に戻るけど、目の前にある若い女性が撮った山ほどの写真の中には、極めて禁欲的なものがあるような気がするんだ。禁欲的という言葉はおかしいかもしれないけど、例えばドイツではベッヒャー夫妻のタイポロジーのようなものには、ものすごく理性的にコンセプトを捉えるという一種の禁欲性がある。もちろん、それとはかなり趣の異なるフランス的な写真は、人間というものを中心に据えて、理性的過ぎないようなかたちで、別の抑制が効いている。彼らはそれを意識しているのだけれども、ここにある写真を見ていると、無意識のうちにさまざまな抑制が効いてしまっているような気がする。


杉田●ベッヒャー夫妻の写真は、ある意味では語りやすい。つまり、いまキミが理性的にコンセプトが練られているというようなことを言ったけど、そうしたコンセプトとか方法に関しては、少なくとも写真そのものについて語るのよりはたやすいんだよ。


伊奈◆コンセプトあるいは方法論的に特化しているという意味では、ベッヒャー夫妻の写真には写真的な快楽というのはまったくないのかもしれない。これは、フランス人のキュレータも同じようなことを言っていた。で、フランスは、そういったコンセプチャルなものだけであることから距離を置くために、身体性とか行為とか、現場というようなものに、より大きな意味を見出そうとする。


杉田●だけど、それがそれでまた、ドイツとは異なる形での不自由さを感じさせる。コンセプチュアルなものに溺れないために、それを突き詰めないようにするんだけど、それが微妙にブレンドされた程度でもと求められていて、外から見ているとその辺は不自由な感じがするわけ。そういう視点から見ると、今度はベッヒャーでさえコンセプトに関してはより自由だったのかなとか思えてしまったりする。彼らの弟子達になると、もう完全に快楽主義的なところさえある。


伊奈◆あるある。だってグルスキーなんてさ、フォトショップをあれだけ使って、もうあれはちょっと一種の工芸にも似た作業じゃない? 最近では、クリエティヴなものを感じないと、同じベッヒャーの弟子でさえ言うよね。何か自分がきれいなものをつくりたいというところで、本当に臆面もなくのめり込んでいる感じがするんだよね。工芸作品というか、平面構成をどうするかということだけへの拘りになってきてるよね。そういう意味では、ものすごく快楽主義的な感じがする。そして、その源にはやっぱりベッヒャーがいる。つまり、ベッヒャー夫妻の場合は堅苦しい不自由さだけが見えてたけど、ベッヒャーの弟子達を通して、ベッヒャーにもそういう類いの快楽があったんじゃないかというところまで見えてくる。


杉田●うん、それは言えると思う。それに対して、この女の子達の写真に戻ると、彼女達はHIROMIXとかによって、自由な写真というか、あんなものを撮ってもいいんだというようなことを教えられてた気になっているわけだけど、でも極めて不自由だよね。というのは、何か自分の生活のリアルな暗部というか、恥部というか、それを見せられなくなってしまっている。マイナスな部分を開けっぴろげに見せるという素振りを見せていても、ワイルドな感じだったり、スピード感があったり、グレてる雰囲気みたいな、ある意味ではカッコイイ虚構のストーリーになってしまっている。これは、かわいかったり美しかったりするものしか撮らないのと変わりない。さらに言えば、花鳥風月。これってある意味の去勢だとも思う。


伊奈◆そうだね。写真学校の18歳くらいの若者達もそうだよ。日常の風景ということで撮らせると、クラブの写真とか、60年代ぽかったり、カンウター・カルチャー系の写真をすごく模倣するわけよね。だから内実というか、彼等のリアリティというのは何も写ってこないわけ。そういう場所に出かけたり、そういう場所が好きだったりするというという一面は確かにあるのかもしれないけど、でも、何かすでに先行する理想的なイメージがあるような気がする。本当の部分は、つまり、ワイルドでも悪ぶってもいないような、マジでダサイ部分は隠蔽されちゃう。どうして隠蔽されちゃうんだと思う?

http://www005.upp.so-net.ne.jp/eiji-ina/files/taidan.html
2000年に行われた対談より