Übungsplatz〔練習場〕

福居伸宏 Nobuhiro Fukui https://fknb291.info/

清水穣『白と黒で──写真と……』(現代思潮新社)より その1

[略] 美術界で氾濫する「イノセント」に先だって九〇年代の写真界を席巻した通称「女の子写真」は、右で述べたような疑問を湧き上がらせ、そして諸手をあげた全面肯定のうちに抑圧した。写真を撮る裸の王様が出るのも当然であろう。
 批評の不在、わかりすぎるのでわからない写真の過剰、それは、同じ様な問題を携えつつアメリカの一九六〇年代に生じ、日本では一九七〇年代に反復されたことである。マイ・フォトグラフィー、マイ・ライフ、すなわち「私」の写真、「生きている」私の「リアリティ」の問題。端的に言って「女の子写真」とは、一九九〇年代の「コンポラ」写真なのだ。つまり、九〇年代後半の写真をめぐる状況は、七〇年代に日本で生じた反復の、子供世代による反復である。批評不在のスナップ写真の隆盛に、「リアリティ」と「私」の問題が絡む構図。実際、すでに七〇年代初頭にも癒し系で日常派の「私」写真は数多く存在したし、引きこもりならぬ「内向の世代」が論じられた時代でもあった。しかし四半世紀を経て、当然ながら新しい外的状況が加わっている。
[P152-153]

[略] それは、荒木経惟の頃から「下手ウマ」として多様化し、全ての差異を吸収できるようになった広告写真なのだ。だから「私の撮った写真とどこが違うのか」という冒頭の問いは、そこでは「広告写真とどこが違うのか」とずらされ、スナップ写真と広告写真の差異が問題化される。もっとも、この問いが我々を導く先は写真の本質というよりも、現在写真を撮る苛酷な条件にほかならない。「世界は写真だ」は二五年を経て「世界は広告だ」になった。つまりすでに広告写真にならない写真は存在しない。スナップ写真は広告写真よりもノイジーな夾雑物が多く不純なのであり、真空度が充分でない、というふうに差異をつけてみる、とたんに、ノイジーなスナップ写真が広告にされるだろう。後に述べるティルマンス(彼もまた変容した広告雑誌でデビューした)の「戦争」がどれほど困難であり、広告に吸収されてしまわないために厳密な戦略を必要とするかが窺い知れるはずである。
 ところが、若手作家の多くの写真には、明るい午後の叙情というか京王線沿線の日曜日というか、希薄な叙情が満ちている。木漏れ日をまぶしそうに見あげ、春霞のように露出オーバーで、美しく輝く今ここでの生の瞬間を切り取って残したい……人々のなんと多いことか。写真を撮ることで「今このとき」を直ちに「過去」にして「思い出」として所有したがる強迫的な欲望は、「今」を充満させる自己が空っぽであるという事実に由来する。九〇年代以降の世代、それは自己と身体の隅々まで広告にほかならない世代であり、それ以外の自己や身体を知らない。「人間だったらよかったのに」、むしろ内面という商品をあてがわれ続けた昆虫的存在であって、全面的な「おいしい生活」のなかで生まれ、養殖されてきた世代なのである。叙情とはうつろな容器に溜まっていく液体であるから、広告はかならず叙情的であり、叙情的広告こそは若い世代の「私」を充たし養ってきた。自分に正直であるとは、うつろな「私」に「叙情」が溜まるがままに任せるということなのだ。アラーキーの子供たちはアラーキーが戦略的に選択したことを、生来の状態として体現してしまっていると言えるかも知れない。
[P157-158]

http://www.gendaishicho.co.jp/mokuroku/sirokuro.htm
http://www.amazon.co.jp/dp/432900433X



▽初出は『美術手帖』2002年4月号。「批評の不在、写真の過剰──1990年以降の現代写真とティルマンス」。
▽「コンポラ」という用語の曖昧さと概念の広さ。この用語が使われるとき、いつもそこが気になります。
 1970年代の日本の「コンポラ」がすべてダメかというと、そうではなかったように、
 1990年代の写真も再検証することで見過ごされている可能性の芽を発見することができそうです。
荒木経惟さんが、「下手ウマ」とされたのは、おそらく先行する世代である
 VIVO(川田喜久治、佐藤明、丹野章、東松照明奈良原一高細江英公)との比較による?
▽しかし、湯村輝彦さん以前に「下手ウマ」(ヘタウマ)という言葉はあったんでしょうか。
 それとも荒木さんが、そう呼ばれた(自称した?)のは80年代以降?
ティルマンスの戦い=勝ち取るべきヨーロッパ的「私」「個」の問題。
杉本博司さんは自分の写真が広告に使用されることを完全に拒否してきた。
▽「僕は描きたいものしか描かないよ」by 奈良美智さん
▽目指すところ次第では、年中5月の春霞→絞り開放、逆光、ハレーション、露出オーバー、タンスグテンという方法もアリでは?
 いや、やっぱ今となっては厳しそうです。
▽「おいしい生活」=西武セゾングループ広告コピー。糸井重里さん作。
 糸井さんの代表作には、「不思議、大好き」「くう ねる あそぶ」「ロマンチックが、したいなあ」
 「じぶん、新発見。」 「ほしいものが、ほしいわ。」 「本当の主役は、あなたです。」
 「おとなもこどもも、おねーさんも」「いまのキミはピカピカに光って」 「僕の君は世界一」
 「いいにおいがします。」 「おちこんだりもしたけれど、私はげんきです。」 「私はワタシと旅にでる。」などがある。
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B3%B8%E4%BA%95%E9%87%8D%E9%87%8C
▽ある搾取構造の存在? それはどこにでもある?


>>>東浩紀 北田暁大『東京から考える―格差・郊外・ナショナリズム』より
http://d.hatena.ne.jp/n-291/20070512#p5


>>>とりあえず解題
http://d.hatena.ne.jp/n-291/20060706#p2


>>>鈴木謙介カーニヴァル化する社会
http://d.hatena.ne.jp/n-291/20060527#p6


カーニヴァル - la fente

本書の核は、「反省的自己」と「再帰的自己」にわけて、90年代以降の世代を後者に位置づけること、そしてそこにデータベースが関与していることだろう。僕が本書を手に取って興味を覚えたのが、監視社会に対する視点。監視社会というと、決まってフーコーのようなパノプティコン、つまり権力者としての体制側が登場するのだが、本書はそれを通過してすでに監視が産業化していること、おそらく産業化のきっかけはオウム事件以降、つまり1995年から変化しているとしている。すでに「監視国家」ではなく「社会の監視化」が進み、監視する者はほかでもない自分自身であるという事態となっている。そこに登場するのがデータベース。フーコー的な規律社会は、細分化できないひとつの主体(身体)が服従の対象だったが、ドゥルーズ的な「管理社会」では分割不可能だった個人をデータとして細分化できる「可分性(dividuels)」を有し、それを蓄積して管理するのがデータベースというわけだ。問題はその監視する側がデータ化される側である当の本人であり、データベースはアルゴリズムによって蓋然的な自己像を提供してくれることにある。そこでの自己分析を再帰的に取り込み、「客我」のみで形成された自己を主体(自我)であると錯覚する。このループ構造こそ自己満足や一瞬の享楽に溺れさせるカーニヴァルを誘発し、かつ客観的にそれらを眺めたときに絶望することで躁鬱状態が生起する。

http://d.hatena.ne.jp/Sais/20060522


>>>それらは飽くまで人畜無害なエンジョイアビリティを超えません(宮台真司
http://d.hatena.ne.jp/n-291/20060606#p6


>>>「対談 杉田敦伊奈英次
http://d.hatena.ne.jp/n-291/20070212#p5


>>>小林のりおさんの「special」より
http://d.hatena.ne.jp/n-291/20061227#p5


>>>「作家」の矛盾
http://d.hatena.ne.jp/n-291/20060302#p2