Übungsplatz〔練習場〕

福居伸宏 Nobuhiro Fukui https://fknb291.info/

ポルボウにて - short hope

〔……〕 センチメンタルな視線で地中海を眺める余裕なんてこれっぽっちもなく舗道を行くと、ここに眠っているわけではない死者の墓に、墓参する人の手でたくさんの小石が積まれていた。ケストラーに半分分け与え、残りを頓服したというモルヒネの錠剤のことをわけもなく思い出す。アーレントの説が正しいとするなら、ベンヤミンは越境の可能性と不可能性に挟まれた日付においてその希望を停止した。あるいは可能と不可能のあいだで中断された通過。かつてゼネストに純粋な暴力=暴力の停止を夢見た、ベンヤミン自身の生の中間休止、といえば観念的にすぎるというなら、ベンヤミンはこの場所で、幼年時代のあの「せむしの小人」に見つめられてしまったのだ、とは言えるだろうか。小石の塔に、拾った小石をひとつ乗せて墓地を出る。駅に戻ると、雨は止んでしまった。

http://d.hatena.ne.jp/kebabtaro/20081015/p1


◇ 『都市表象分析 1』 10+1 series「自著を語る」(田中純) - オンライン書店ビーケーワン

 夏の終わり、ポルボウの断崖の上、乾いた大地にはサクラソウに似た薄紫色の小さな花が、枯れ草の狭間に咲いていた。地中海を望む白い共同墓地の片隅に、荒削りな岩と黒い石板からなる彼の記念碑を見つける。まだ幼いサボテンが寄り添うようにそのかたわらに育つ。人けのない墓地のなか、手にしていた小石を岩の上に重ねた。遠く列車の音。ダニ・カラヴァンの《パサージュ》、その階段を下り、亀裂の入ったガラスを透かして、砕け散る波を見つめた。

 都市、都市的なるものをめぐって書き継がれてきた一連の論考に書物というかたちを与える前に、私は自分がこの土地——ヴァルター・ベンヤミンの生が唐突に断ち切られた町——にどうしても立たなければならないと思った。本書は彼に献じられたささやかなオマージュである。ベンヤミンが言うように、都市が名もない人々の記憶で埋め尽くされているのだとすれば、都市論はその記憶を歴史的に構築する作業でなければならない。私はこの書物が彼の意志に沿うものであることを願った。そのようなものに現になりえているかどうかはわからない。けれど、ポルボウで私はそうあってほしいと祈り、書物の代わりに石のかけらを記念の岩に捧げたのである。

 都市論を語るとき、ベンヤミンの名を引くことはあまりに常套的な身ぶりになってしまった。にもかかわらず、ベンヤミンにおける「都市」という「方法」がその拡がりにおいて十全に捉えられたとは言いがたい。雑誌『10+1』で本書に収められた論考を連載し始めたとき、私はそんなもどかしい思いに駆られていた。それゆえにこの連載は、現代都市の諸相をめぐる分析であると同時に、ベンヤミンの方法をその分析において活用しながら方法論的に再考するための場となったのである。

http://www.bk1.jp/review/0000002987


ベンヤミンの通行路 : 書評 : 本よみうり堂 - YOMIURI ONLINE(読売新聞)
http://www.yomiuri.co.jp/book/review/20080121bk03.htm


◇ 「悪」があるのに「音楽」はありえるのか - digi-log
http://digi-log.blogspot.com/2007/08/web_12.html