Übungsplatz〔練習場〕

福居伸宏 Nobuhiro Fukui https://fknb291.info/

ヴァルター・ベンヤミン 『パサージュ論』 - 「石版!」

(1)

ベンヤミン・コレクション3 記憶への旅』の感想にも書いたとおり、私はベンヤミンを「出来事の一回性と記憶、そして記憶のなかにある出来事への憧憬とその反復について書き続けたエッセイスト」として読んでいて、一見難解に思える衒学的な近代都市論・文化批評も、ベルリンからでてきた小難しいことを考えがちの批評家が「花の都」に取り付かれてしまって書き始めたモノ、つまり「おのぼりさん」の文章として読むと、親しみが湧いてくるのだった。現代の日本で喩えるならば、東北の片田舎からでてきた人が初めて渋谷を訪れ、センター街やパルコの広告都市感に圧倒されてしまった感じ……と勝手に思っており、ベンヤミンが、資本主義の弁証法的運動! 物神化された商品によるファンタジー! とか言うのも「おのぼりズム」と「マルクス主義へののぼせ」なのでは、と感じる。

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(2)

建築物を秩序づけられた世界と読み解くのは、なにもベンヤミンが初めてではなく、フランセス・イェイツやライナルド・ペルジーニの著作を紐解けば、ルネサンス期のイタリアで大きな盛り上がりを見せていることが分かります。古代記憶術の伝統から生まれたジュリオ・カミッロの記憶劇場では、通常の劇場であれば、観客が座って舞台を眺めるであろうところに同心円上に秩序体系化された知識が配置され、宇宙を形成します。


このようにカミッロの記憶劇場とベンヤミンのパサージュは、仕組みとしてよく似ているように思われるのですが、決定的な違いは、前者が利用者が舞台から観客席にある知を一望監視するのに対して、後者は線的に通りを歩きながらでなければ辿れない、というところにある。言わば、ランダム・アクセスかシーケンシャル・アクセスか、みたいな違いです。ここにベンヤミンにとっての記憶のイメージが象徴されるように思われました。もしベンヤミンがランダム・アクセス型のイメージを持っていたら彼は、パサージュではなく、百貨店、とくにギャラリー・ラファイエットについて書こうとしたかもしれない、と妄想してしまう。

http://sekibang.blogspot.jp/2012/09/blog-post_10.html


(3)

ベンヤミンの『パサージュ論』第3巻には以下の項目でまとめられた断片が収録されています。「夢の街と夢の家、未来の夢、人間学的ニヒリズムユング」、「夢の家、博物館、噴水のあるホール」、「遊歩者」、「認識論に関して、進歩の理論」、「売春、賭博」、「パリの街路」、「パノラマ」、「鏡」、「絵画、ユーゲントシュティール、新しさ」、「さまざまな照明」……とパッと見て分かるとおり、項目数の多さは全巻最多、とはいえとっ散らかった内容になっているわけではなく、アルファベット順に項目が並べられているにも関わらず不思議とまとまりを感じさせます。個人的には、いくつかの断片からベンヤミンが19世紀という時代を、どのように捉えていたのかが浮かび上がるところを興味深く読みました。


ベンヤミンは言います。「19世紀とは、個人的意識が反省的な態度を取りつつ、そういうものとしてますます保持されるのに対して、集団的意識の方はますます深い眠りに落ちてゆくような時代」である、と(P.7)。そして、集団が見る夢をパサージュを遠して追跡することが、彼の『パサージュ論』における主たる目的だったと言います。ここでベンヤミンが言う、個人的意識の先鋭化と、集団が見る夢の深化、これらは相反するように思われるけれども、パラレルに進行していく。この点は第2巻を読んだときに書いた「本人は自由意志に基づいて生活しているつもりなのに、マガジンハウスの雑誌に書かれたライフスタイルなるものをなぞっているだけだった、個性的でシャレオツな生活は、なにかの痕跡でしかない」ということにも繋がるように思われました。個人は個人的な意識で行動している。しかし、その個人も集団を構成する要素でもあり、集団が見る夢とは無関係ではない。集団が見る夢、を「時代の空気」みたいな言葉に置換しても良いかもしれません(ベンヤミンユングの『集合的無意識』を借用します)。個人の意識によって時代の空気は醸成され、そしてそれが個人を覆っているように見えてくる。

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