Übungsplatz〔練習場〕

福居伸宏 Nobuhiro Fukui https://fknb291.info/

西井一夫『写真的記憶』(青弓社)より

飯沢耕太郎『写真の力』
 これは、「ユリイカ」「イメージ・フォーラム」「WAVE」「is」「ZOOM」などカタカナ雑誌に書かれた、主に海外の写真家の仕事を紹介・解説したものを集めて一冊にしたものである。死体、廃墟、自写像、狂気、双子、少女、ボンデージ、戦争、ソフト・フォーカスなど目次に並ぶ字を見ただけで一目瞭然に、「流行」的イメージの流れのなかに写真を当てはめて、少し気のきいた言い口でファッション化していく(ソフト・フォーカスな物言い(19))、写真の無力化への加担そのものである。そのことにまったく気づいていないでタイトルが付いているところがなんとも言いようもない。いろいろ言う気はないが、一つだけ苦言を呈しておくと、「Memento Mori」という章はページにして二十ページもないのだが、その文章中に「おぞましい」という言葉が、私が数えただけで六回も繰り返される。こういう単一の修飾語しか持たない物言いは、いかにも薄っぺらで貧しい。
白水社)('89・9・25)
(19)少しあとでファジーという言葉になった。

http://www.amazon.co.jp/dp/4787270729
御用ジャーナリズム的なメディアに載らないだけで
オフレコでは写真関係者からよく耳にする類の話ですが、
西井一夫さんの指摘を考えるためにも、
下記サイトを再度チェックしてみようと思います。


◇ Photologue - 飯沢耕太郎の写真談話 | コラム | 家電 | マイコミジャーナル
http://journal.mycom.co.jp/column/photologue/index.html


飯沢耕太郎:著者で見る|artscape
http://artscape.jp/report/review/author/1197769_1838.html


※過去の西井一夫さん関連
http://d.hatena.ne.jp/n-291/searchdiary?word=%c0%be%b0%e6%b0%ec%c9%d7

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>>>中平卓馬『なぜ、植物図鑑か』を読む。 - 【海難記】 Wrecked on the Sea

私がずっと写真表現一般に対して、とくに森山大道の写真に対して抱いていた警戒心は「手の痕跡」という言葉でまさに言い表されている。90年代以後に登場した日本の若い写真家がモノクロではなくカラー写真を使って、それこそ「図鑑」のような「記録」としての写真を撮り始めたとき、私ははじめて写真を面白いと思った。そしてその後、中平卓馬の「なぜ、植物図鑑か」を読むことで、ようやく私は、自分が森山大道荒木経惟の写真や、西井一夫の写真論になぜだかずっと感じてきた嫌悪感ーーとまではいかないが、それに近い釈然としない感情ーーは、ようするに中平卓馬がこのときに自問自答した問題を、それよりはずっと浅いレベルで感受していたにすぎないのだ、ということを悟ったのである。

中平の文章は、「写真を撮る」という行為が彼にとって「批評」にほかならないこと、その批評は世界に向けられるだけでなく、自分自身にも向けられていることを告げて終わる。写真評論家とか写真批評家という人を私はほとんど信用しないが、中平卓馬は写真そのものによって写真に対する批評を行ったという意味で、真の批評家だったのだということを、この小文は教えてくれる。

もちろん中平卓馬には遠く及ばないが、私も彼にあやかって、小説を「物語」として「読む」だけでなく、「事物」としての小説を「見」つづけていきたいと思う。

http://d.hatena.ne.jp/solar/20071103#p1

http://d.hatena.ne.jp/n-291/20071107#p6
*1


【参考】無題(写真) - 大森俊克 SHOW TIME - LOAPS
http://www.loaps.com/column+index.id+54.htm

*1:「日本の若い写真家がモノクロではなくカラー写真を使って、それこそ「図鑑」のような「記録」としての写真を撮り始めたとき」というくだりは、正確ではないでしょう。